魑魅魍魎で視界撹乱

精神からも出血があればとっくの昔に出血多量で死んでいただろうな、と思う。しかも僕は産まれてくる時に「血液型を親が病院で聞いてくれなかった」派の人間だったので、輸血も無しであるのは確実だ。



人間創生時の「心に血を通わすべきでない」という神会議による決定の恩恵が、こんな僕にも受けられる事になるとは。こうなるとなかなか神も憎む事が出来辛くなる。お給料が入った途端にiPhoneの充電コードが突然断線したり、高校の頃から愛用していたベルトがヤマダ電機のトイレで突如ブった切れ、電気屋のトイレからベルト片手に出てきて店員に二度見されるといった様な体験を神の悪戯によって体験させられてきた身としては例え偶然であろうとこの運命の巡り合わせを遊び半分、しかも追求され様とも「イヤ偶然だし。知らんし。ハイ論破」と言ってしまえばどんな場面も切り抜けられる神に対し、届かぬと分かっていても悪態のひとつやふたつは言っても良いのかもしれない。しかし、器が大きくないと子供だ未熟だと指を刺されて笑われる昨今であるし、我慢強い人間はモテるとも聞く。ただ、優しく寛大な心を持つという事は、同時に精神をすり減らす機会も増えるということで、「器が大きいと生きるのも大変ですなガハハ」とデリカシーの無い田舎のオッサンの様に笑ってみても、部屋で返事をしてくれたのは電気ストーブの「フゥーン」という音だけであった。やはり雪国に電気ストーブは必需品だ。相槌さえも打ってくれる。



精神からの出血は例え目に見えずとも感覚として「ああ死に一歩近付いてる近付いてる」と感じられるとして(ただ他人の出血場面は何となく見てて分かるから恐ろしい)目に見える「身体からの出血」というのは最近ほとんど経験をしなくなってしまった。子供の頃は擦り傷やら何やらで常時どこかを怪我して学校に行っているという、金本レベルの満身創痍で日々新たに傷を作っていた様な記憶はあるが、最近は大きな怪我という怪我の記憶は殆ど無い。



爪を噛む癖が大人になってから出来たので指先だけはいつも血だらけだが、これは「今出来た癖でラッキー」と不幸中の幸いとして見るべきでは無いだろうか。例えば8歳の子供がふと手元を見るとストレスによる物と見られる爪噛み癖の結果爪もボロボロ手も絆創膏だらけであれば、何か家で事情があるのだろう、再婚した母親の新しい恋人が家に押しかけ母と夜の街に毎日の様に消え、いつもたった独りで食べるランチパックピーナツバター味の夕飯に心痛めた結果がこうなのであろう、と大人達に在らぬ心配をかけてしまう恐れもある。臨機応変に出血、そして怪我をしていく事が大切だ。




また、野球部や柔道部の怪我は何故か「殊勲の栄誉」の様な扱いであるのに、文学部の「本を読んでたらページで指を切った」だとか卓球部の「サーブを返し続けて段々と後ろに下がって行ったら嫌われている女子卓球部の陣地に少し入ってしまっていて『イヤッ!』と悲鳴を挙げられて避けようとしたら足を思いっきり挫く」の様な出血であったり怪我が軽視され嘲笑われ、女子に嫌われるのも納得がいかない。



「小学生らしい怪我」の様なレッテルがあるのと同じく、そういった軽視されている者たちにも、ある種の偏見がなされ、有象無象達から舐められているのだろう。そういった時に野球部、サッカー部の怪我ランクと釣り合いを取るとするのならば「部室で本棚が倒れてきた所を妊婦を体を呈して守り背中大出血」だとか「これ以上女子に嫌われるのを防ぐ為にと手首を切り裂き女子大歓喜」等のレベルで無ければ「納得させられる怪我」には彼らではなり得ないのだろう。そういった意味では血を流す場所、血を流した人間の年齢、そして家族構成もこれからは重要になってくるのではないだろうか。適材適所、子供らしい出血場面、子供らしい出血量といったTPOを弁える必要が2012年から未来に生きる子供達にとって大事な要素の一つである事は間違いない。