多数決の結果が保留

人間、必ずしもお互いを知り尽くすという事をせずとも友達や恋人といった特別な関係になれる訳ではある。そういった他人の「まだ知らない部分」「暗い部分」があるからこそ、関係を継続出来る様な所があるのではないだろうか。「誰かと一緒にいる時間は1人でいる時間と同じくらい大切で重要だ」という言葉は友達が少ない事への言い訳としても使える点からも、優秀なセリフだと言えるだろう。積極的に自己にも、そして他人にも言葉として採用していきたい。



しかし、自分の願望として相手の内面を覗き込んでしまった場合はまだ分かるが、問題は「知りたくも無いのに知ってしまった」場合だろう。この場合見たくないなら見なければ良い、という事でも済まされず、自分の中で何とか処理しなければならないのも厄介な所だ。そいつの問題なのに何故僕が面倒を見なければならないのか。納得がいかない。



僕の場合で言えば恐らくTwitterやこのblogで発言している事がそのままそれに当たるだろう。好きで書いているからまだいいが、僕の現実生活でのファンが僕の発言内容からTwitterアカウントまで辿りつく可能性も決してゼロでは(「帰りたい」「もう働きたくない」「おばあちゃんにお年玉せがんだ」等々)無いのだ。この一文字一文字でさえ明るい家庭生活が絶たれる原因たり得るかもしれない、と考えると身体中にブツブツが出来てくる。Twitter本社とlivedoorを訴えて賠償金で遊んで暮らしたい。



他人のそういった部分を最初に見てしまったのは「家庭環境の違い」にあった。今まで学校で同じ様に遊び、同じ様に育った人間達だと信じていた物達が、ふと自宅へ戻った瞬間に、6畳ほどの兄妹兼用の部屋の二段ベットでどちらが上に寝るかで腹パンのやり合いを妹と繰り広げている僕とは雲泥の差を付けた「10畳の部屋で」「それは自分専用の部屋で」「夕食前にはフルーツのおやつが必ず出てくる」という貴族の生活をしている、と偶々友達の家へ遊びに行った時に知った瞬間には「おお神よ」と十字を切った物であった。



「ほぼ同じ人間」と思っていた彼らにも、学校では見せない顔があるし、僕よりいい部屋に皆は住んでいたりするんだ、という事を知った時、自分の部屋にある二段ベットが僕は堪らなく恥ずかしく感じたし、オレンジだとかグレープフルーツを親にせがんだりもした。自分の気持ちを表現したり誰かに伝えるという事をあまり得意としなかった僕は(「あまり得意としなかった」とは自分を守る良い表現だ)とにかく自分自身が送る日常そのものが「恥ずかしい」と思う気持ちが、それ以降すごく強くなってしまった様な気がする。



僕はゲームが好きな子供だったのだが、仲の良い友達が新しいゲームを僕の家に持ってきたりすると、堪らなく悔しい気持ちになる事もあった。「自分が他人にどう見られているか」という事を物凄く気にする癖に「他人の心の機微には鈍感で、何かあってからで無いと申し訳ない気持ちが出てこない」という性格をその頃から患っていたので、「このゲーム貸せよ!」「嫌に決まってんだろ!」「いいだろ!」「嫌だ!!」みたいな自分の嫌な部分丸出しな喧嘩もよくした。更に付け加えると、小学生の時点でこんなコンプレックス丸出しの罵り合いを狭く汚い我が家で、だ。今でも哀れで涙が出そうになる。見栄を張る子供程哀れな存在は無いだろう。



今思い出したが、僕らの中学校は傘立ての代わりに青くて結構大きめのゴミ箱にも使えるポリのケースみたいなのが、傘泥棒に合う事の無い様に教室の中に設置されていたのだが、傘で魔獣を叩き切る魔法剣士の集まりだった僕達クラスの男子は、もう何ヶ月も置きっぱなしになってる傘を使って自己の鍛錬によく戦い合いをしていた。元々おとなしい人間だった僕だが、その日は梅雨で雨も降りしきる中、昔の右手の傷跡が疼くのを抑えられず、出来れば優雅に闘いたいと見た感じ綺麗な傘を一本拝借。組み手に急遽参戦し、とても楽しい撃ち合いを繰り広げたのだが(新技「牙突」が炸裂した)休み時間が終わり放課後、クラスのちょっとヤンチャなグループの1人が「俺の傘がボロボロになってる」と立ち尽くしていたのを見た事があった。



見ると成る程、傘の先端部分もまるで何かを思いっきり突いた様な跡がある。聞けば新品で昨日買ったばかりだという。もう放課後も遅い時間で誰も教室に殆ど残っておらずに困り果てていた彼を余りにも不憫に感じた僕は、ロッカーにストックしてあった折りたたみ傘を貸してあげる事にした。彼には大変感謝される事になり、結果的に僕の意外な優しい一面を披露する事になってしまった。やはり善行は気持ちのいい事である、という事を皆さんにはお伝えしておきたい。あんなに清々しい気分になる事は早々無い。是非お勧めしたい物だ。