辛い人生に生きる君たちへ


私は辛い人生を書いてきた。
もともと文字を書くのが好きなのである。りょうしん(お父さんやお母さんのことですね)を愛するようにして、暗いかこをひっしにびか(じしょでしらべましょう)してきた。
「せいしゅんとは何ですか?」と君は聞くかもしれない。そういう時はいつも「それは、まやかしです。今まで多くの人間たちが、そこにあるはずだ、とひっしにもがいたあげく、何も生みだせず、何も無いことを知り、ひかくてきかんたんなぜつぼうで死んでいった『たましいのざんぞう』が見せるまやかしです。」と答えるようにしている。
私はふこうにも、かこの中でくらしている。そのかこは「今」を生きるはずの私をいじめたり、わらったり、ばかにしたりしている。だから、少なくとも私はたくさんの「にげたくてもにげられなかった自分」と共に生きていることになる。この苦しさは、ーーもし君たちがそう望むのならーーおすそ分けしてあげたい程である。


たとえば、もし「未来」というまちかどで、私が誰かによび止められたら、それはどんなに辛いことだろう。「エスキくん、ちょっとおたずねしますが、今あなたが歩いている21世紀とは、一体どんな世の中でしょう。」
その様にしつもんされ、ぜひ私としてもそのしつもんにはこたえてあげたいのだが、おそらく私はそのしかくを持たない。ごいが無いからでも、大人としてどんなたいおうが正しいのか分からない訳でも、中学生の時にディズニーランドに行った時にかぞくづれから「シンデレラじょうを後ろにして写真をとってほしい。」とたのまれて、こころよく引きうけたのだが、デジカメのつかい方がイマイチりかい出来ずにこまっていたら、ごかぞくの赤んぼうが待ちくたびれて泣きだしてしまい、先ほどまでニコニコしていたお母さんに「もういいです!ほかの人にたのみます!」とちょっとだけおこられてしまったのがトラウマで、知らない人に話しかけられるのに、とてつもないプレッシャー(えいごは分かりますか?)を感じるようになってしまったわけでもありません。一か月さきの生活がどうなっているかも分からない私に、そんなしつもんが答えられるわけがないからです。だから、21世紀のことなんか、だれかに教えられるはずがないのです。



昔と今も、また未来においてもかわらないことがある。そこに「辛かったこと」「苦しかったこと」「もう二どと思い出したくもないこと」という出来ごとは必ずおきて、どんな人間でも、それになやまされながら生きているということである。
不幸こそびょうどうのかちなのである。なぜならば、人間は不幸を知らずに生きていくことは出来ないし、人の不幸を感じて生きていないと、私がかわいて死んでしまう。



では、不幸という「不変のもの」をきじゅんにおいて、考えてみたい。
どこまで行っても、幸せはやってこない、どんな風にすごしても、けっきょくはいやな思いをする。このことは、やはり一つもあやまっていないのである。色んなかこにいる私は、幸せを求め、たたきおとされ、「ああ、コレはそういう物なんだ。」と、その身をつつしんできた。時給700円、ざんぎょうアリのざんぎょうだいナシというアルバイトでの「お客さまの幸せが、私たちの幸せだ。」という考えにも、頭をもたげなかった。はたらくということは、きっと自分の幸せをよろこんでうすめるということなのだと、この時知った。



さて、では、君たちじしんのことである。
君たちは、いつの時代もそうであったように「自己」をかくりつしなければならない。
ーー自分にやさしく、相手にきびしくーー
という、自己を。そして、すなおでかしこい自己を。
21世紀においても、人間は明るく、前むきに生きるべきだ、という考えが当たり前になってしまうだろう。人間らしく、人並みの幸せを、という考えにこうずいの様にのみこまれてしまってはならない。川の水を正しく流すように、君たちのかくりつした自己が「じょうしき」をしはいし、そして良いほうこうに持って行ってほしいのである。



人間は、よわいものがつよいものにいつもしはいされている。
私は「人」という文字を見てしばしばぜつぼうする。長いはずのぼうが、短いぼうに支えられるようにして、ゆうゆうじてき、なんて人生はこんなにも美しくしいんだろう、今日の天気もああ、きれいだなあ。よーし、今日も前向きにがんばるぞ!えいえいおー!そしてじゃくしゃは俺の目の前からうせろ!!しね!!とでも言いたいかのように、すっくと上をむいてあほづらをかましているのだ。そのことからも分かるように、人間は社会を作って生きている。私には短いぼうの哀れな泣きかおが、すぐにそうぞうできる。ああ、なんてかわいそうな短いぼう。さげすまれ、まるでそこに始めからいなかったかのようにあつかわれ、長いぼうのせいで空も見上げることは一生がい叶わず、書き順でも金魚のふんみたいにスシャとじゃけんに2画目としてあつかわれる。君たちは良い子だから書き順はぎゃくに書きなさい。短いぼうを先に書きなさい。先生の言うことはむししてもよい、彼らはただ「お金がもらえる」という理由でしか君たちをかくまう理由なんて無いようなひどいやつらだ。聞くな聞くな。




さて、さいごになるが、以上のことはいつの時代になっても、人間が生きていくうえで、かかすことの出来ないこころがまえというものである。君たち。君たちはつねに、3日目のゲリのようなドンヨリとした気持ちで、どろ沼とかした未来という大地をふみしめて歩くことになるだろう。私は、私の心の中にある、もっともきたないものを見続けながら、以上のことを書いた。書きおわって、私の未来は、やはりげすいおすいにまみれたドロヘドロのような物だと感じた。






(この文章は、筆者が小学生の国語の教科書に向けて勝手に書いた物を、何だか途中でとてつも無く悲しい気持ちになって消したり、シュレッダーにかけたり、おばあちゃんのご飯だよという声を無視したりして、当ブログ向けに再編集して掲載した物です。)