yen town bandの皆さんです

1000円札1枚さえあれば何処までも行けてしまう様な気持ちになれた日から十数年、450円のコロコロコミックを購入する際にかなりの出費を覚悟して毎月本屋に入っていった日から十数年、クリスマスプレゼントや誕生日プレゼントで買ってもらったゲームソフトをゲームショップに買い取って貰った際に手にした5000円札に失神しかけてから十数年。いつからか1000円札を「大金」として認識しない様になってしまったのかは全く思い出せないが、ここ数年で円の価値が大暴落したというニュースもあまり聞かないから、恐らく自分の中で勝手にお金の価値という物をを下げているだけなのだろうとは思う。


お金に対する考え方が「大人になった今」と「子どもだった昔」で比べれば大きく大きく変わってしまったのは、何も私だけではないだろう。少ない少ないお小遣いを何とかやりくりしながら漫画やお菓子を買っていた頃と違うのは、金を使うという行為にすら「責任感」の様な物が引っ付いてくる様になった事だ。このお肉を買ってしまうと今月の食費はどうなるのか?来月旅行に出かけてしまったら、数ヶ月後に迫る車検代が出せなくなってしまうのではないか?この投資は果たして自分の将来の為になる投資になり得るのか?所得が少ない人間であればあるほど、数百円だけの消費の為に未来の自分がどうなっているかのシミュレーションを何度も何度も繰り返さなければならない。


「金が無ければ未来も無くなる」などという言葉は、うまい棒とチュッパチャップスをアホの様に食いながら空っぽの財布を片手に来月のお小遣い配給日までの日数を数えていた小学生の頃の私では、到底考えつかない文字列であった事だろう。金が無いのならおばあちゃんに甘えた声を出すか見栄っ張りの父親に友達が家に来ているタイミングでお小遣いを請求すれば、たったそれだけで財布の中身は潤ったのだ。お金という物が「生きるか死ぬか」の領域までは決して侵入して来なかった事の贅沢さを知らずに済む有り難みは、大人になってからでないと決して分からない様になっているのだろう。


大人になれば「金があればある程、社会的地位が得られる」として社会は優遇してくれる訳ではあるが、では子どもの頃は金があればどうなっていたかというと、それ即ち「遊戯王カードが沢山ある」「ゲームが沢山持てる」という事で、クラスの脚の速い連中と仲良くなる為の絶好の機会を作ってくれる物として機能した訳であるから、結局大人であっても子どもであっても、お金が「地位向上」に役立つという点においては、あまり変わりは無いのかもしれない。


脚が速くない人間、女子と気軽にお喋りできない人間、どちらかといえば大人しい人間がどうすれば学級内カースト制度で上位に立てたかといえば、やはり「ニンテンドー64が家にあるのか」「コントローラーは複数個持っているのか」「大乱闘スマッシュブラザーズで脚の速い方たちを気持ちよくさせる事のできる接待プレイが出来るのか」というゲーム関連と「遊戯王カードを豊富に所持しているのか」「明らかに分の悪いトレード条件でもアホの振りして承諾出来るのか」というカード関連の2点であった。子どもは金が無くても未来はあるが、それは「遠足での昼食の時間に誰からも誘ってもらえない」という未来でしか無い。「脚が速い子ども」を大人になった私の現状に置き換えて、どの様な人間に例えられるかといえばやはり「高学歴な大人」という事になるだろう。「女子と簡単にお喋りできる」が「リーダーシップと溢れんばかりの人徳でコミュニケーション能力バッチリ」とも例えられる。


では「家にゲームが沢山ある」は「簿記検定3級所持」くらいのレベルだろう。「遊戯王カードが適度に強い」も、せいぜい「大型特殊免許所持」がいい所だ。資格を修得して社会の一員になったフリをするのにお金がかかるのならば、クラスで誰かと一緒に昼食を食べる事にすらお金がかかるのがこの世の仕組みである様だ。子どもの頃に1000円札が大事に大事に思えたのは、それが「誰かに話しかけてもらいたいから」ただそれだけの為に消費されるのが惜しかったからなのかもしれない。今となってはその様な心配をする必要は無いのだが、どちらにしろ嫌な金の使い道だ。