ともすれば変わり映えは無く

「普通に生きていれば友達は出来る」という様な価値観は唾棄すべき思想だ。どこからが友達でどこからがそうでないのか、そんな自問自答はまず面倒なので考えたくも無いし、そもそもそんな事で悩む様な年でも、もう無い。しかし友達の多さがその個人の価値と言う訳でもあるまいに、どうもソレが無い者は「淋しい奴」だとか「可哀想な人間」といった分かりやすいキャラクター設定に落ち込ませようとするのはどうも納得がいかない。



こんな物は見方さえ変えれば、友達は多い者は只の「節操無し」にも見えるし、少ない者は「他人の尊重のしすぎ」とも見る事だって出来る。何が言いたいかと言うと、要は「第三者からの好感度」で大抵の物事の印象は180度変わってしまうのだ。人間の意思がある限り、自然体でいる事も叶わずに、自らの知らない所で己の評価が下されるとしたら、こんなに悲しい事は無いのだろう。



ある一つの出来事をきっかけにして、それまでの印象がグルリと変わって誇らしく感じていた物が急に憎く思えたり、逆に疎ましく思っていた物が愛しく思えたりするのだから、人間の意思なんて物は本当に虚弱体質で困る。色々衝撃的だったのは、小学生の時に友達だった金田君の家に遊びに行った時の事。金田君は少し、体系的に肉付きが良い家庭に生まれていて、家族揃ってぽっちゃりとした、まあデブだったのだが、それに加えて裕福な家庭だった様で家にお邪魔した時も、話題作のゲームは必ず発売日に買えていたり、そもそもゲームソフトの数が尋常では無いほど多かった。ように見えた。少なくとも我がゲーム棚の「5000円で買ったゲームを1週間でクリアしゲーム屋ですぐに売りに出し、またクリスマスに親に買ってもらったゲームも売ってなんとか赤字国債の返済に右往左往」という様な入れ替わりの激しい有様とは雲泥の差であった事は間違い無かった。




人間的にも穏やかで勉強も出来た彼への印象は「優しくてゲームいっぱい持ってる奴」という「イイヤツ」部類として見ていた事は間違いなかった。しかし、ある日彼と私で野球で遊び、野球道具を彼の家に返しに行った時の事。おばあちゃんから「金田君の家で食べなさい」と持たされ、彼の家で食べたお菓子の残りがポケットに入っていたので、飴玉を彼にも一粒上げて2人でカラコロと舐めながら家に到着。彼のお母さんが「おかえり」と出迎えてくれた。



彼女も彼と同じく、少し肉付きのいい、まあデブだったのだが、それでも上流家庭よろしく服や髪型もお洒落で綺麗にしている人だった。しかし、その瞬間、嘘みたいな事が起きた。私達の姿を見るやいなや、金田君のお母さんは「何してるの!また落ちてる物食べてるの!」と叫んだかと思うと、パッチーンと金田君をビンタ。勢いで吹き出る飴。吹き出る唾液。「どうしてお母さんの言う事が聞けないの!」と恫喝される金田君。横でコロコロコロ...と私の足元を転がって行く飴。私の足元で止まる飴。ごめんなさいと泣く金田君。何が起きたのか分からない私。今思い返すと、人は一気に2つ以上の予想外の事が起きると、脳が考える事を辞める、という仕組みなのだろう。「突然ビンタされる友達」「前にも落ちていた物をたべていたという事実」「ビンタされ口から飛び出る飴」「私があげた飴を落ちていた物呼ばわり」・・・今でも正直あの日、何が正確に起きたのかよく理解が追いつかない。子供ながらに「この事は忘れた方がいいんだ」と思ったのだろう。この事を金田君に後日聞いてみる事も無かったし、誰か他人に話す事も無かった。



只々考えれば考える程に不思議な光景だ。金持ちの金田君は拾い食いをした事があったのか?お墓のお供え物を盗み食う様な昭和の映画でしか見た事がない悪行を金田君がやったのか?お母さんは何故私の存在を忘れる程激昂したのか?何故私の飴を落ちていたゴミ扱いしたのか?っていうか私はこの後どうしたんだ?何故記憶が無いんだ?



この一件以来、私の金田君評は「温厚で優しい」から「拾い食いをする子。あと、何かすごい家が怖い」になった。そう思うと、学校ではニコニコしている金田君が、何かとんでもない闇を抱えている様な気がして怖く感じたりもするから不思議だ。何かとんでもない事件に巻き込まれて偽物の母親から金持ちのフリを強要させられていたのかもしれない。まあ、あと拾い食いもするし。それに、せっかくの飴玉をゴミ扱いされたし。私がビンタで飴が口から勢いよく飛び出る瞬間を見たのは、今の所この時だけだ。今でも私は飴を見ると「甘いお菓子」から「ビンタで飛び出る物」として感想が出るので、いやはや印象操作とは偉大だと思う。偉大か?偉大ではないな。