人には適度な遊びと肩の力を抜いた余裕ある生活が必要らしいが、では何が遊びで何が仕事なのか。

一家心中の記事を読んだりする事で心臓がギューとなった非正規雇用の私が「このままじゃいかん!」と手を付ける事といえば、ハローワークのホームページを開く訳でも無ければユーキャンにハガキを出すのでも無く、車で30分かけて最寄りの本屋で1200円のいつ読むか分からない新書を買ったり、モスでこのブログを書き始めたりといった将来の肥やしにもなる事もない、ただの「お遊び」だ。

 

 

人には適度な遊びと肩の力を抜いた余裕ある生活が必要らしいが、では何が遊びで何が仕事なのか。その境界線が曖昧なまま何年も過ごしていると、自分の生活というものはどこにあるのか、何の為にあるのかが、分からなくなる。

出来れば「生きる」に最短距離で直結した生活を送る事で死に至りたいのが私であるので、余計なお遊びを生活から排除したいし、そういう遊んでいられない年齢にもなっている。前の職場でたぬきそばを食っていると、隣の席の10代の同僚に「咀嚼音が大きい人はマジでNG」とTwitterで咀嚼音実況されたりするような日々と、鉄板を磨く職場と、プレハブの休憩室と、黒ずんだ鉄板と、パイプ椅子といったそれらが、私の人生の何に直結していたのか、そしてその仕事から離れた今の日々が何に直結しているのか、そしてそれらは近道だったのか、遠回りであったのか、いつになっても私には何も分からないままだった。

 

 

小学4年生の頃に、空手教室に通っていた。通い出したキッカケが何だったのかは、もう覚えていない。

私が育った小さな村に唯一ある村立の体育館地下の道場で、毎週火曜日にその教室は開かれていた。

「空手」と聞くと瓦を割ったりリングに立って対人を想定した格闘戦なんかを想像するが、私が通っていたのは格闘を習うというよりかは、所謂「型」を教わる教室だった。正拳突きとか蹴りとかそういう感じではなく、足の運び方だとか流れるような一連の動きだとか、自身の手足をどう使えば美しい所作を見に付けられるのか、そういう点に重きを置いていた教室だった。

 

 

ただ、その頃の私は小学4年生だったし、私の小4といえば厚紙で作った自作の遊戯王カードで居間で1人8役を担いながらトーナメントで遊ぶ事が一番の楽しみで、しかも自慰覚えたての時期だった。空手教室の2時間があれば、遊戯がまさかのベスト4落ちする第142回大会の波乱に感慨にふけながら、先週のランク王国の漫画ランキングで「ふたりエッチ」がランクインしてるかどうかのチェックくらいは余裕でできていたはずだった。要は行かない理由は山ほどあった。

しかもこの時期になると、教室内が恐ろしく寒くなる。道着の下は肌着しか着用は許されず、暖房器具も無い。冷え切った板張りフローリングの上で左足を前に出しながら左上段払い、右足を前に出しながら右上段払い、そこから右足で前を思いっきり蹴り上げながら「エイッ!」と叫んで着地。

寒さで指先の感覚が全くないまま、何度も何度も繰り返されるそんな工程に、私は根を上げつつあった。入って3ヶ月もしない内だ。

 

 

自分にどんな選択肢が与えられているのかも分からない今の生活を続けていると、あの極寒の空手道場で、型を何度も何度も反復練習していた頃を、ふと思い出す。大会がある訳でもなく、友達と一緒に遊びながら習う訳でもない。「自身の手足をいかに上手く扱って美しい所作を身につけるのか」なんて目標も無かったし、というか当時考えもしなかった。言われた通りの動きを、言われた通りに再現する。ただそれだけだった。

大人になった今も、私はあの冷たいフローリングの上にいる気がする。誰に見せるでもなく、誰が見たいでもなく、ただただ何かに耐えている気になって、時間を浪費している。

空手教室は私が入って半年くらい経った頃、その後私の遊戯王カードを盗みに盗む事になる大滝くんが加入した。元から運動神経がよかった大滝くんは空手に関しても覚えがよく、あっという間に私の技量を追い越し、メキメキと上達していった。そして学校での振る舞いと同じく、空手教室の中でも主役となりつつあったこの大滝くんにキツめの弄りをされ続ける様になった私は、元よりモチベーションが低かったのもあり、5年生になるかならないかくらいの時期に、空手教室を辞めた。

 

 

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それにしても「歩く」というのは何だか一歩一歩着実に自分の出来る事を積み重ねていく、みたいな堅実的な行為の比喩として使われる事もあるが

それにしても「歩く」というのは何だか一歩一歩着実に自分の出来る事を積み重ねていく、みたいな堅実的な行為の比喩として使われる事もあるが、それはあくまで文面上での印象の話だと思う。必要に迫られての移動としての「徒歩」というのは、結局は負け犬の移動手段でしかない。

人間の身体というのもまた不便なもので、例えば二日酔い、内臓が冬場の工場に放置された冷え切った鉛に全て変わってしまったのかと思われ程の倦怠感の中で布団に横たわれば、そういう時に限って身体が怠ければ怠い程反比例して頭の中がクリアになったりして、普段記憶の片隅に打ち捨てた様な子どもの頃の思い出が鮮明に蘇ったりする。神様もう2度と思考したりしませんと胸の前で十字を切っても、私に正常な内臓を返してくれる専門の神様は聖書には記されていなかった事が分かった。

そんな頭の中に響く声の一つ一つですらも苦痛に感じる程の疲労感にあっても、それに付き合いざるを得ない様なシチュエーションの一つに「徒歩」もある。

 大学生だったころ、アルバイト先の熊谷にある映画館まで、電車で通勤していた。レイトショーが終了してからの退勤となっていたので、終電での帰宅が必然的に多くなっていたが、その日は珍しく中番で20時上がりのシフトになっていたので「じゃあ早く帰ってお風呂に入ってメロンでも食べながらドストエフスキー罪と罰の続きを…」と洒落込むつもりだったが、物事という物は私の場合上手く進む事など未来永劫無いようで、高卒で映画館に就職した年下の上司に飲みに誘われ、強制的に連行されるイベントとかが起きたりする。私はこの年下の上司が苦手で、それは彼の薄く細く整えた眉毛であるとか、研修期間が解けた途端にアルバイトの大学生全員にタメ口で話すようになったデリカシーの無さとか、私が良いなと思っていた女と付き合いだしたはいいが「社員とバイトが付き合うのはちょっと…」と部長に怒られたので女にバイトを辞めさせた数ヶ月後にその女と平気で別れてしまうような節操の無さに起因する所はあったし、それに加え何故かこの年下の上司は私をどうにかして酒の席に連れていこうと必死だった。

何か企みでもあるのかと身構えていたが、奢るといわれれば着いていくしかない。細心の注意を払いながらハイボールを飲んでみれば、何の事はない結局はバイト先ですら誰とも打ち解けられず孤立していた生活圏何における最弱の肉塊であった私を相手に、自分語りと人生のアドバイスを打ち捨てる事で翌日の朝も元気に眉毛を整えられるだけの活力と優越感に浸りたいが為に、私を対話の出来る使い捨ての壁として設置したかっただけでなのであった。

 

 

日陰に隠れながら、数十センチ、数十センチと私を両足が少しずつ運んでいく。

5年前だ。

8月のとある猛暑日、13時という太陽が頭の真上に登る時間帯に、私は約6kmになる長距離の徒歩を強いられていた。実家から一番近場にあるコンビニに向かう為である。

 

 

私の地元は、昼になれば道端には車に惹かれた狸の死体が山ほど転がり、夜になれば市内の有線放送で熊が出るので注意しましょう!との連絡、そして深夜からは狐がゲンゲンゲーン!!!と夜通し鳴き続けるレベルの田舎であったので、コンビニに行くのでさえも、徒歩では命に関わる事態になる事が多かった。

なので朝飯を食わなかったり、夜更かしをしていたり、母に「いい加減ハローワークへ行かんと飯出さんぞ!!」と怒鳴られ家を飛び出す羽目になったりといった準備が出来ていない日では道半ばで力尽きる事もあり、つまり、その日はそういう日であった。

 

 

人間死に間際になると走馬灯が見えるとはよく言うが、私が朦朧とする意識の中で思い浮かべていたのは、数年前に高校生だった頃に国語の授業で聞いた「人間は歩く葦である」という言葉である。

葦って何だ?とか、何で今になって思い出したんだ?とか、国語の担任だった武田先生は私が東京の大学にAO入試で最終面接まで行って不合格の通知が来た後、いの一番に連絡したのに「…今ちょっと用事あるからまた掛け直すわ」と言って結局電話でも学校でも声を掛けてくる事がなかった許さん死ねとか、色々疑問点は出てきたが、少なくともこの「人間は歩く葦である」という言葉の中での歩くという行為が、恐らく生命活動への何かしらの比喩であるという事は何となく分かった。

が、では私は何かしらの証明の為に、こうして両足を交互に少しずつ前へ前へと突き出しているのかと聞かれると、全くそんな事は無かったのである。

 

 

リーマンショックと大学卒業が丁度シンクロした就職氷河期と言われた年代の就活生であった私は、30社程度の不採用通知で鬱気味になった挙句、当然の成り行きとして就活に失敗し、この4月に狸が死に狐が鳴く地元に帰ってきたばかりであった。

 

 

てっきり都内に就職するものとばかり思っていた母もこれには想定外だったらしく、車も無く運転免許も持っておらず、家から一切の身動きが取れなくなった私への当たりも1日また1日と日を追って段々と強くなっていった。

「このままじゃいかん」と、流石に焦りを感じ始め自動車学校に通い始めたのが6月であったが、第1回目の実技授業であまりの緊張でシートベルトの付け方が分からなくなった開始3分で教官からの有らん限りの暴言と罵倒を繰り出されてからは、どうやってもクラッチを踏む足が震えてしまう体質になっていた。坂道発進、バック、S字クランクと失敗に次ぐ失敗、罵倒に次ぐ罵倒で追加授業が重なるに連れ、すっかりと足が遠のいてしまっていたのだ。

 

 

この日も自動車学校の送迎バスの集合場所を素通りし、「自動車学校の昼食代に」と母から渡された1000円札だけを握りしめて徒歩1時間かけコンビニまで行き時間を潰した後はコンビニ近くにある駅までまた歩き、電車賃230円を払い電車に乗り込む。そしてまだ栄えてる方の駅で下車、駅近のファーストフード店で500円のセットランチを食べまた帰る、というのがいつものコースになっていた。

この日も金をドブにブチまけるだけの1日にするつもりであったが、いつもと違う点があるとすれば、やはりそれは「今日暑すぎる!」に尽きた。寝起きで母から逃げてきたから、朝飯も昼飯も取っていないどころか、水すらも口にしていない。

 

 

父と離婚してからは母はめっきり怒りっぽくなり、虫の居所が悪いと私を詰るのはいつもの事としても、祖母や叔母にでも当たり散らすのが日常茶飯事であった。

しかし所以となった離婚も、家族に隠れてギャンブルに嵌り、その金欲しさにマルチ商法で一儲け企み、しかしそれもいい様に騙されて数百万の借金を作るという絵に書いた様なダメな人間だったのが夫であったし、離婚してから工場で働きながら学費を4年間払い続けた結果、結局その息子も無職になって帰ってきたのだから、同情する余地は大いにあった。だから、免許取得の進展に時間がかかりすぎている事にそろそろ疑いを持ち始めたのか、昼まで寝ている私を怒鳴り散らしたのも仕方ない事なのである。私はグッと堪えて、家を後にした。

 

 

30度を軽く超える気温の中で、転々と健在する建物 (しかも大体が打ち捨てられた廃屋だ)の日陰に隠れながら、数十センチ、数十センチと私を両足が少しずつ運んでいく。

途中、涼しそうなガレージが見えたので目をやると、中にいた老婆と目が合ってしまった。しかも視線を感じ、何度か振り返って見ても、私の姿が見えなくなるまでジッとこちらを凝視している。手押し車と一緒でないと外出もままならない様な半分死にかけの老婆だったが、よっぽど歩行者が珍しいのか、それとも私の顔色が悪かったのか、単にボケてしまっているのか。今になっても、老婆を見ると両親が離婚してからは一度も連絡を取っていない父方の祖母を思い出す。一人っ子だった父にとことん甘く、借金を打ち明けられても父を庇い続けた祖母だったが、60代前半にして膝の軟骨がすり減り2本の杖が無いと歩けない様な肥満体だったから、数年経った今、もしかしたら寝たきりになっていてもおかしくない。忘れかけてた事がやかましい蝉の鳴き声と共に、グルグルグルグルと脳裏に浮かんでは消えていった。

 

 

なんだか考えてる内に「というか俺は本当に歩いているのか?駅に向かっているのか?」と独り言が出る。もしかしたらコレは夢なのかもしれない。なんだか景色も白っぽくなってきたし、ふと目を覚ますと小5の同じく猛暑日、友達の熊倉くんの家に遊びに向う途中の急な坂道で、汗だくになりながら自転車を漕いでる私に戻るのかもしれない。延々と続く様な坂道に、無心でペダルを漕ぎ続けていたあの頃に「ハッ」と気が付くと戻るのかもしれない。

 

 

途端、目の前が薄暗くなる。驚き、目線を上げると、いつの間にか建物の日陰に入っていた。コンビニに到着したのだ。私はおにぎりとアクエリアスを買い、1時間ほど立ち読みをした後、予定通り電車に乗ってファーストフード店へ向かった。その後、今は郵便局員となった熊倉くんに「車ないからレンタルDVDショップまで連れていってくれ、それか金を貸してくれ」と連絡を取ったが、「返すアテが無いだろ!」と当然の反応を取られてしまった。長年の付き合いになる癖に【対無職】とで言える様な当然の反応をされたのが少し頭に来たが、「お前の家の前の坂、急すぎるんだよ!」くらいしか私には言い返せる言葉は無かった。

 

 

人間が歩く葦であり、歩く事で何かを証明しなければならないのであれば、私の場合、「怠け癖」と「自業自得」が積み重なった末の歩行であるという証明が、足を踏み出す度に強固な物になっていたのだろう。この日を境にして懲りた私は、もう一度自転車学校に通い、AT限定にコースを変更を願い出るとあっという間に仮免、免許取得とトントン拍子で進み、バイトにも何とかありつく事が出来た。精神的にも非常に辛くドン底に陥る日々であったが、一番憎らしかったのが、毎日の歩行がいいトレーニングになっていたらしく、心は沈んでいるのにガリガリの足腰に筋肉が程よく付いて充実した風になっていた事だ。健全な精神は健全な肉体に宿るという言葉もあるが、多分アレもウソだ。