白のダイハツに乗っています

例えば自動車のエンジンと肛門が管で繋がっていて、自動車が人々の「不安感」をガソリンとして進んでいくとしたら、私の軽自動車はきっとどこまでも走っていけるだろう。只々1日1日を生きているだけで、ドンドンと動力が人間の心で作られていく。原子力発電所も、電気会社も、石油も、ロシア人も、アラブ人だって必要ない。夢の永久機関はなんてことはない、人々の心の中に、ずっとあったのであった…





童話っぽい感じにいつの間にかなっていたが、私のブログは童話では無いので、「ずっとあったのであった…」ともう終わりの様な感じになっても、終わりではない。残念ながら。
「私は児童文学が読みたかった」という方、「肛門という文字の羅列を目に入れる事で、コンマ1秒でも時間を無駄にしたくない」という方、または「私は森絵都だ」という方は、このまま「戻る」をクリックして欲しいし、児童文学には確実に「肛門」という2文字は登場しない。
私の様な、穴という穴がどれだけ緩んでも社会のクソの足しにもなれない人間の肛門など、勿論どうでも良いのだが、「畑仕事に軽トラを使う、孫とのテレビ電話が唯一の生きがいのおばあさん」の肛門、「18歳になりたてで始めての遠出、お父さんから借りたクラウンにクラスメイトを乗せて海へ向かう瀬戸市在住処女」の肛門など、明らかに社会からの保護を必要とされるべき肛門を自動車などとドッキングさせる訳にはいかない。あってはならない。私が間違っていた。申し訳ありませんでした。

いやしかし、何故心という物は「不安」や「焦り」、「辛さ」を休みもせず、毎日毎日せっせと作り続けられるのか理解に苦しむ。普通飽きるだろ。いや、飽きて下さい。

それに比べ「楽しさ」はどうだ。「嬉しさ」はどうだ。毎日毎日楽しそうにしている人間がいるだろうか。何を食っても何を見ても嬉しそうにしている人間はいるだろうか。
我々が感じる感動など、瞬間的な物でしかない。感じた瞬間、それは過去になっていく。
Hカップフェリス女学院彼女に作ってもらった手作りの肉ジャガも、最初の1食目は勿論喜んで食えるだろう。
休日に入ったスターバックスでも、テラス席に男2女3で歓談、戯れる大学生の集団を見た時も、最初のブレンド1口目は「まあ、大学生とはこういう物だろう」と納得して飲めるだろう。
幼稚園で皆から蔑ろにされる余り、かまって貰いたさが遂にピークに達した時に図工の時間で食った紙粘土も、最初のひとかじりは、周囲からやんややんやと大喝采を浴びるだろう。


だが、その「楽しさ」も数回続いただけで、途端に色褪せ、あまつさえ怒りを買う事だってある。
作りすぎたせいで大量に余り、連続8食目に突入したフェリス肉ジャガは、はじめは涙を流して「オオ フェリス万歳 高学歴万歳」と男の肩を震わせたはずが「テメーは白のセーターを着てその胸の膨らみを一生アピールしてろ!死ね!!」に豹変させる。
スターバックスでの大学生たちはいつの間にか細胞分裂、周囲は「オシャレな雑誌をスターバックスで読む私をみんな見て頂戴!!」の雑誌持ち込みブス大学生に囲まれる事で、あんなに楽しかった休日は、大量の調子乗り大学生を網膜に焼き付けられたせいで台無しになる。
紙粘土を食うことで皆がやっと振り向いてくれたと満足する園児も、それがモリモリムシャムシャと咀嚼をすればする程「なんだ只の狂人か」と周囲からの冷たい視線をドンドン浴びる事になる。


「もう少し頑丈になってくれ!」と人体に訴えるばかりだ。
肛門に何度も管を出し入れしてもへっちゃらな括約筋的頑丈さ。
4年ずっと肉ジャガでも飽きを全く感じない味覚的頑丈さ。
テレビのスピーカーからサッカーを応援する若者の「ウェーイ」が聞こえてもチャンネルを変えない程度の鼓膜的頑丈さ。
紙粘土を食っても「なるほどココで彼をチヤホヤし続ければ良いのだな」という周囲の可哀想な男子を労わる事の出来る精神的頑丈さ。
「楽しさ」の野郎が滅茶苦茶飽きっぽいせいで、「辛さ」ちゃんがその埋め合わせをさせられているのだ。もう少し人体で猛威を振るってくれ、楽しさよ!何故すぐ帰る?何故すぐ飽きる?皆、キミの帰りを待ってるのよ?お姉ちゃん、キミが頑張ってるの、ずっと見てたんだよ?




「楽しさ」をガソリンにして動く自動車はどうだろう?肛門に繋いだ管を通って、エンジンに「楽しさ」が伝わり、自動車は動いていく。「肛門に管を通すこと」に楽しみを覚える人間が沢山いるのならば、コレは簡単だ。まずは人間国宝第一候補鬼月あるちゅ先生のあのシリーズをTOYOTAに送る事から始めよう。