毎日の電気あんまを思い起こすだけで、身体中にブツブツが出て来てしまう。私は興奮できたであろうインターネットのエロシチュエーションの一つを、

6歳だった頃に毎日のように父親に股間に電気あんまをかけられたせいでこんな人生になってしまった。居間で寝転がっていると必ず仰向けにひっくり返されて股間に右足がセット、2mmでも勃起するまで延々と電気あんまが続くのが私の毎日の夕飯後の過ごし方であり幼少期であった。

 


最初のころは親とのスキンシップだと喜んでいたが、これが1ヶ月2ヶ月と毎日の様に続けられると苦痛でしかなく、小学校低学年の子どもが成人男性の腕力に適う訳もない。終いには私のおちんちんの様子を右足で確認しながら大声で「気持ちいいと言うまで俺は辞めんぞ!!」と大声で詰られる。私が小学校高学年あたりになると流石に父も抵抗を感じたのか頻度はグッと減ったが、今度は4つ下の妹が毎日の様に居間で悲鳴を上げていた。妹の「イヤー!」を聞きながら2階で64のスマブラを遊んでいたのが数年後の毎日の夕食後の過ごし方であり4年後の幼少期であった。
今「電気あんま」で検索するとちょっとしたエロエピソードがわんさか出て来るし、私の人生において「力づくで父に電気あんまされる女子小学生」との会合が全く無ければオッと思ったかもしれないが、私の人生おいては「力づくで父に電気あんまされる女子小学生」はすでに登場している。しかもそれは血を分けた妹である。30代前半の土田晃之そっくりの父にされる毎日の電気あんまを思い起こすだけで、身体中にブツブツが出て来てしまう。私は興奮できたであろうインターネットのエロシチュエーションの一つを、父に潰されてしまっている。そういう事をツイッターに流れてきた「電気あんまのイタズラをされる女児の二次画像」がRTされて思い出す。

 


過去のちょっとした出来事が大人になった今、ふとした時に頭によぎる事で「トラウマ」と後追いで認定してしまう事が多々ある。私は一体、こういった爆弾をいくつ抱えてしまっているのか?「女子中学生にキモいと興奮するので言われたい」などとインターネットでのたまう成人男性がインターネットには掃いて殺すほどいるが、彼らは中学生の時に女子中学生に「キモイ」と言われた事なく後に私立文系の大学を卒業し就職2年目の夏のボーナスで5.1chのサラウンドスピーカーを買ったようなフェイクデブであるので、簡単に見分けがつく。

多感な時期に他者に「キモイ」などという罵声を浴びせられ数年経過、学生時代の記憶が大分薄まったところで何かのきっかけでトラウマが爆発してこその「キモイ」経験者である。「電気あんま」と「女子中学生からのキモイ」の様に、全うな青春を過ごす事ができずに大人になった人間たちが、一体いくつの爆弾を抱えながら生活しているのか見当も付かない。私の見るもの感じるものが、いつ起爆スイッチの役割を果たしてしまうか分からないのだ。

赤松健の漫画が目に入る度に、魔法先生ネギま!に私を投影させたオリジナルキャラクターが登場する脳内連載漫画の第1話が鮮明に脳裏に浮かんでくる。

ペルソナ5で遊んでいる時、イゴールの「これはこれは…」という台詞を聞く度に、時給683円の本屋バイトをしていた時にブックカバーをかけるのを手こずっていると「そんなかけ方してんの?…それはそれはって感じだな」とデカイ独り言をしてきた30代くらいの客ハゲのハゲ方を思い出す。

 

 

こうなれば真っ白な空間の事だけを考えて生きていきたいが、真っ白な空間の事だけを考えていきていくには口座に残った2万円のみでは若干辛い。過去に囚われずに現在(いま)を生きろとはよく聞くが、その現在が過去の出来事を引っ張りだしてくるのだから、「生き方」などと言うのは、私の意志とは無関係なところにあるようだ。

今思うのは、全身が毛深い方で自慰を2日に3回行うこの体質は、幼少期からの電気あんまによる男性ホルモンの刺激があったからでは?という事だ。性欲が人並みよりも強い分、自慰における気持ちよさも平均より多く経験している事になるが、それであれば私は両親とも円滑な仲を築き、体毛も薄く、電気あんまで気持ちよくなってしまう女子中学生の2次画像で興奮する方がまだ良かった。子どもは親と環境は選べないものだが、「あなたの家は電気あんまを日常的に行うご家庭ですか? Yes or No」くらいのアンケートは取るべきである。

 

 嫌いという訳では無いのですが…

UQ HOLDER!(11) (講談社コミックス)

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本当にちゃんとケジメつけて組抜けました」みたいな講師の方が「俺たち頭が悪いんだからこういう所で資格取るしか働けないんだよな!オイ!!

ブログ用に何か書く事はないかと、何とはなしに筆箱を開けてみる。シャーペン、消しゴム、全然消えない消しゴム、0,3ミリのシャー芯、4GのUSBメモリ、ぶっ壊れて中身だけになった赤ペン、ほとんど空になった修正液、2年くらい前にドラクエⅩのシナリオライター求人に応募する為に締め切りギリギリになって履歴書を書いていたら受付終了まであと30分の所で履歴書に貼る証明写真用に近所のスーパーで急いで買ってきたスティックのり*1、今年の冬に前職の工場を辞める際に退職願を書く為に用意した1本1480円のそこそこ高い筆ペン*2と、まあわんさか出てくる。


元来出不精な上、筆記用具は買ったきり使った後はそこら辺に置きっぱなし、再度使うタイミングになると「そういえばアレ、どこに行った?」となって探すのも面倒でまた買い直し…の繰り替えし。
これまで筆箱所属選手たちの契約更新なんて全くしてこなかったから、私の筆箱の中は殆どが壊れかけか、これから何の用途に使うのか分からない道具ばかりだ。ソフトバンクに移籍してからの松坂とか楽天の栗原とかみたいなのばっかりを抱えてる様な筆箱だが、こんな選手ばかりを抱えても困るのは私だけなので、選手たちには時間をかけて伸び伸びと思う存分プレイしてほしい。この球団自体無くなる可能性メチャメチャ高いけど。


漁ってたら何だか楽しくなってきた。もう少し中身を点検してみると、筆箱からへばり付くように出てきたのは、先端が丸くなった薄いプラスチックの物体だ。
全く心当たりがないのでもう少しよく見てみると、大分擦り切れてはいるが、うっすらと目盛りの様な物が見て取れる。先端の丸くなった部分に45°という表示が見て取れるので、もしかしたら分度器としても使えるのかもしれない…と書いてて気付いた。コレ、小学生だった頃の読書感想文で努力賞とかで貰った景品の物差しだ!!


たしか郵便局が主体になって夏休みに開催してた小3の頃の読書感想文コンクールだった。お盆も過ぎた辺りで一人で桃鉄やってたら、父がいきなり「夏休みの宿題が全部終わってるか確認する!」ってやってきて、読書感想文が一番面倒で後回しにしてたのを見たらキレられてぶっ叩かれた挙句、泣きながら書いたヤツ。しかも半分くらい父に手直しされたからほぼほぼ父の作品だったっていう。
10月くらいに全校朝会で児童全員集まって校長先生から努力賞の賞状貰ったときの恥ずかしさったら無くて、その後も賞状を父が私の部屋に飾りたがってたけど*3、景品で貰ったこの物差しにはメチャメチャ助けられた。分度器機能もあれば、物差しの中央部分にいくつか穴が空いていて、3cmとか5cmの円がコンパス無しで書ける様にもなってたから、算数のテストとかコレだけあれば大体の問題が解けてしまっていた。中学を卒業するくらいまでずっと使っていたのは覚えてるんだけど、まさか今、筆箱から出てくるとは…?


あと、出てきた物で一番テンションが下がったのが「労働安全衛生法による技能講習終了証」だ。
…なんのこっちゃ分からない人ばかりだと思うが、簡単に言うと工業系の資格が必要なクレーンとか溶接とかの作業をする際に「私にはその作業の講習を受けたので実行可能ですよ」を証明する為のヤツ。
免許証くらいのサイズなので財布とかにも簡単に入れられるんだけど、退職する時に職場から返してもらったきり、筆箱の中に入れっぱなしで半年くらい経ってた事になる。


因みにこの講習のとき、「そのスジの鉄砲玉だったんですけど本当にちゃんとケジメつけて組抜けました」みたいな講師の方が「俺たち頭が悪いんだからこういう所で資格取るしか働けないんだよな!オイ!!」って8人1列でヘルメット被って休めの体制取ってる私たっちにハッパかけてたのをメチャメチャ覚えてて、メチャメチャにヘコんだんですけど、多分半年前の私もコレ返されてヘコんだんで筆箱の中に封印したんだと思います。今もヘコんでるし。

 

 

 

 

*1:受かったかどうかは秘密だ

*2:「受かったかは秘密だ」もクソもねえな

*3:今思うと自分が書いた子どもの読書感想文で賞状貰って飾りたがる父親ってヤバい気しかしない

蓋を開けて人様のウンコを見るよりかは「あるぞ…あるぞ…

ここ最近は仕事が休みの日も休みでない日もペルソナ5ばかりやっているので、深夜に夜食を取る事が多い。昨日も家族が寝静まった頃に自室から台所に降りて、夜食のカップ焼きそばUFOと白飯をレンジで温めて食う。*1ペヤングも美味いが、私はどちらかといえばUFO派だ。ペヤングよりUFOの方が何故美味しく感じられるは分からないが、とにかくUFO派だ。容器が丸くて食いやすいからだろうか。味関係ねえな。

 


台所で洗い物をする度に三角コーナー内の生ゴミに必ず目が行ってしまう。
女体の形をした大根が捨てられてるのを探している訳では無い。
連想するのは「この場で考えうる限りの最悪のイメージ」である。

 


「洗ってる途中に手が滑ってドッロドロに溶けつつある野菜クズ集団の所へ箸を落として突き刺さったらどうしよう」
「箸を救おうと手を伸ばした時に変な所に引っかかって、三角コーナー内の生ゴミを全部洗い場にブチ撒けたらどうしよう」
「明日以降、夕飯を生ゴミに刺さったこの箸を使って食うたびに三角コーナー内の惨状が頭に浮かんだらどうしよう」
そんな事態に陥った事なんて1回もなかったはずなのに、何故だかそんなイメージが頭の中に流れ込んでくる。三角コーナーに限らず、映画館とかの広めのトイレに行ったりすると、「もしかしたらあそこの便器、ウンコを流してないのでは?」と、若干見に行きたくなったりする。見たい訳では勿論ないんだけど、何故か無性に気になってしまう時がある。便器の中に女体型の大根がある訳でもでないのに。

 


もしかしたら、最悪な展開になった時にショックを受けない様、心に保険をかけているのかもしれない。


中学生の頃、担任だった東条先生との面談を終えて家に帰ってきた母の第一声だった「先生、アンタの口が臭いってよ!」を聞いた翌日、登校するとクラスの女子のほぼ全員、心底嫌そうな顔で私の姿を見る度に鼻をつまむ仕草をしだした辺りから「“心の準備”というのは心へのショックを軽減させる為には必要な事だ」を無意識下でも実践できる様になっていたのだろうか。

 


確かに1、2、3のドン!で便器の蓋を開けて人様のウンコを見るよりかは「あるぞ…あるぞ…ウンコあるぞ…」と知っておいて便器を開けた方が精神的にはマシなのかもしれない。ただ、この場合どちらにしても私は知らない人間の流してないウンコを見てしまっている訳で、何がマシなのかはよく分からない。


そもそもこの場合における諸悪の根源は「ウンコを流さずにトイレから帰っていくバカ」である。毎回トイレに行く時はハンケチーフを持って消毒用アルコールを掌にブチ撒ける事を欠かさない私が、一番の心労を抱えている事に納得がいかない。その場における一番避けたい物を避けたいが為に“見ておく”“知っておく”というのは、我ながら不思議な習性だ。

 


そういえば、今嵌っているペルソナ5でも「認知」という言葉がキーワードになっている。「人は見たい物を見たい様にしか見ない」という人間の習性が物語の核に組み込まれているのが面白い。
一見同じ様に見える事象でも、見る視点が変われば全く違う意味を持って各々に受け止められるというのがベースにありながら、主人公たち怪盗団が“見る”視点と“見られる”視点とを織り交ぜて物語が語られていくので、なかなか一筋縄ではいかないストーリーになっている。ただここまで書いて「三角コーナーと流してないウンコからペルソナ5を連想するのはおかしくないか?」と日本有数の大企業様アトラスに申し訳ない気持ちが出てきている。
「人は見たい物を見たい様にしか見ない」のであれば、私がペルソナ5を起動する度に今日のこのブログを連想してしまう前に、キーボードを叩くこの手を今すぐ止めるべきだ。

 

 

 

寝食を忘れてプレイするゲームが久々に出てきました。 

ペルソナ5 - PS4

ペルソナ5 - PS4

 

 モルガナが可愛い過ぎてボコボコにしたくなってきませんか?

*1:多分今日も