日陰に隠れながら、数十センチ、数十センチと私を両足が少しずつ運んでいく。

5年前だ。

8月のとある猛暑日、13時という太陽が頭の真上に登る時間帯に、私は約6kmになる長距離の徒歩を強いられていた。実家から一番近場にあるコンビニに向かう為である。

 

 

私の地元は、昼になれば道端には車に惹かれた狸の死体が山ほど転がり、夜になれば市内の有線放送で熊が出るので注意しましょう!との連絡、そして深夜からは狐がゲンゲンゲーン!!!と夜通し鳴き続けるレベルの田舎であったので、コンビニに行くのでさえも、徒歩では命に関わる事態になる事が多かった。

なので朝飯を食わなかったり、夜更かしをしていたり、母に「いい加減ハローワークへ行かんと飯出さんぞ!!」と怒鳴られ家を飛び出す羽目になったりといった準備が出来ていない日では道半ばで力尽きる事もあり、つまり、その日はそういう日であった。

 

 

人間死に間際になると走馬灯が見えるとはよく言うが、私が朦朧とする意識の中で思い浮かべていたのは、数年前に高校生だった頃に国語の授業で聞いた「人間は歩く葦である」という言葉である。

葦って何だ?とか、何で今になって思い出したんだ?とか、国語の担任だった武田先生は私が東京の大学にAO入試で最終面接まで行って不合格の通知が来た後、いの一番に連絡したのに「…今ちょっと用事あるからまた掛け直すわ」と言って結局電話でも学校でも声を掛けてくる事がなかった許さん死ねとか、色々疑問点は出てきたが、少なくともこの「人間は歩く葦である」という言葉の中での歩くという行為が、恐らく生命活動への何かしらの比喩であるという事は何となく分かった。

が、では私は何かしらの証明の為に、こうして両足を交互に少しずつ前へ前へと突き出しているのかと聞かれると、全くそんな事は無かったのである。

 

 

リーマンショックと大学卒業が丁度シンクロした就職氷河期と言われた年代の就活生であった私は、30社程度の不採用通知で鬱気味になった挙句、当然の成り行きとして就活に失敗し、この4月に狸が死に狐が鳴く地元に帰ってきたばかりであった。

 

 

てっきり都内に就職するものとばかり思っていた母もこれには想定外だったらしく、車も無く運転免許も持っておらず、家から一切の身動きが取れなくなった私への当たりも1日また1日と日を追って段々と強くなっていった。

「このままじゃいかん」と、流石に焦りを感じ始め自動車学校に通い始めたのが6月であったが、第1回目の実技授業であまりの緊張でシートベルトの付け方が分からなくなった開始3分で教官からの有らん限りの暴言と罵倒を繰り出されてからは、どうやってもクラッチを踏む足が震えてしまう体質になっていた。坂道発進、バック、S字クランクと失敗に次ぐ失敗、罵倒に次ぐ罵倒で追加授業が重なるに連れ、すっかりと足が遠のいてしまっていたのだ。

 

 

この日も自動車学校の送迎バスの集合場所を素通りし、「自動車学校の昼食代に」と母から渡された1000円札だけを握りしめて徒歩1時間かけコンビニまで行き時間を潰した後はコンビニ近くにある駅までまた歩き、電車賃230円を払い電車に乗り込む。そしてまだ栄えてる方の駅で下車、駅近のファーストフード店で500円のセットランチを食べまた帰る、というのがいつものコースになっていた。

この日も金をドブにブチまけるだけの1日にするつもりであったが、いつもと違う点があるとすれば、やはりそれは「今日暑すぎる!」に尽きた。寝起きで母から逃げてきたから、朝飯も昼飯も取っていないどころか、水すらも口にしていない。

 

 

父と離婚してからは母はめっきり怒りっぽくなり、虫の居所が悪いと私を詰るのはいつもの事としても、祖母や叔母にでも当たり散らすのが日常茶飯事であった。

しかし所以となった離婚も、家族に隠れてギャンブルに嵌り、その金欲しさにマルチ商法で一儲け企み、しかしそれもいい様に騙されて数百万の借金を作るという絵に書いた様なダメな人間だったのが夫であったし、離婚してから工場で働きながら学費を4年間払い続けた結果、結局その息子も無職になって帰ってきたのだから、同情する余地は大いにあった。だから、免許取得の進展に時間がかかりすぎている事にそろそろ疑いを持ち始めたのか、昼まで寝ている私を怒鳴り散らしたのも仕方ない事なのである。私はグッと堪えて、家を後にした。

 

 

30度を軽く超える気温の中で、転々と健在する建物 (しかも大体が打ち捨てられた廃屋だ)の日陰に隠れながら、数十センチ、数十センチと私を両足が少しずつ運んでいく。

途中、涼しそうなガレージが見えたので目をやると、中にいた老婆と目が合ってしまった。しかも視線を感じ、何度か振り返って見ても、私の姿が見えなくなるまでジッとこちらを凝視している。手押し車と一緒でないと外出もままならない様な半分死にかけの老婆だったが、よっぽど歩行者が珍しいのか、それとも私の顔色が悪かったのか、単にボケてしまっているのか。今になっても、老婆を見ると両親が離婚してからは一度も連絡を取っていない父方の祖母を思い出す。一人っ子だった父にとことん甘く、借金を打ち明けられても父を庇い続けた祖母だったが、60代前半にして膝の軟骨がすり減り2本の杖が無いと歩けない様な肥満体だったから、数年経った今、もしかしたら寝たきりになっていてもおかしくない。忘れかけてた事がやかましい蝉の鳴き声と共に、グルグルグルグルと脳裏に浮かんでは消えていった。

 

 

なんだか考えてる内に「というか俺は本当に歩いているのか?駅に向かっているのか?」と独り言が出る。もしかしたらコレは夢なのかもしれない。なんだか景色も白っぽくなってきたし、ふと目を覚ますと小5の同じく猛暑日、友達の熊倉くんの家に遊びに向う途中の急な坂道で、汗だくになりながら自転車を漕いでる私に戻るのかもしれない。延々と続く様な坂道に、無心でペダルを漕ぎ続けていたあの頃に「ハッ」と気が付くと戻るのかもしれない。

 

 

途端、目の前が薄暗くなる。驚き、目線を上げると、いつの間にか建物の日陰に入っていた。コンビニに到着したのだ。私はおにぎりとアクエリアスを買い、1時間ほど立ち読みをした後、予定通り電車に乗ってファーストフード店へ向かった。その後、今は郵便局員となった熊倉くんに「車ないからレンタルDVDショップまで連れていってくれ、それか金を貸してくれ」と連絡を取ったが、「返すアテが無いだろ!」と当然の反応を取られてしまった。長年の付き合いになる癖に【対無職】とで言える様な当然の反応をされたのが少し頭に来たが、「お前の家の前の坂、急すぎるんだよ!」くらいしか私には言い返せる言葉は無かった。

 

 

人間が歩く葦であり、歩く事で何かを証明しなければならないのであれば、私の場合、「怠け癖」と「自業自得」が積み重なった末の歩行であるという証明が、足を踏み出す度に強固な物になっていたのだろう。この日を境にして懲りた私は、もう一度自転車学校に通い、AT限定にコースを変更を願い出るとあっという間に仮免、免許取得とトントン拍子で進み、バイトにも何とかありつく事が出来た。精神的にも非常に辛くドン底に陥る日々であったが、一番憎らしかったのが、毎日の歩行がいいトレーニングになっていたらしく、心は沈んでいるのにガリガリの足腰に筋肉が程よく付いて充実した風になっていた事だ。健全な精神は健全な肉体に宿るという言葉もあるが、多分アレもウソだ。