小銭の計算は出来る?5円玉と10円玉の違いは分かる?

出来れば楽な仕事だけして暮らしていきたい物である。


私の考える楽な仕事、職業といえば、泣いてる児童の背中を休み時間中さすっているだけで給与が発生する「田舎の小学校の養護教諭」や、『シュートで終わって欲しいですね!』と取り敢えず90分間言っておけば給与が発生する「テレビ朝日のサッカー日本代表戦における解説者」、27センチのスニーカーを試し履きさせて親指の辺りを押してやりながら『少しキツイですね』などと適当に言っておけば給与が発生する「靴流通センターの店員」辺りであるが、教職を取ったとして田舎の「心のケアは気合で」精神を各家庭で叩き込まれた児童たちのいる小学校にカウンセラーとして配属されるかはかなりの賭けであるし、これからサッカーの解説者を務められる程のキャリアを積み上げるのはかなり厳しいし、27センチのサンダルを試し履きされると私にはもう成す術が無い。


他者を人として認識する際に『こいつには職があるのか、無いのか』でヒト扱いかモノ扱いかを判断する様な差別主義者が蔓延るこの社会では「職を持ちつつ楽な業務で人権ゲット」が出来る人間こそが強者である。


しかし、子どもが親を決める事が出来ない様に、大人もまた職場を決める事は出来ないのだ。学生時代に勉強すればする程、楽な業務に就け、残業時間が減る訳でも無く、国公立大を卒業すれば脳内をチョイと弄られ『怒り』という感情が欠落した上司が指導担当して配属される訳でもない。所謂ホワイト企業に配属される可能性は勿論上がるだろうが、結局『運』に左右される事には変わりない。サイコロの出た目で人生は決まるのだ。


ただ、「今回は運が悪かった」「今回のサイコロでは当たりが出なかった」が毎度毎度続くヤツの人生においては、それは『運』であるのだろうか。
例えば私である。ここまで正規、非正規を含め4つ程の職場で働いてきたが、内2つの職場が倒産し、1つは毎月の赤字でいつ無くなってもおかしくない状況にある(因みに今の職場です)。


極め付けは大学卒業後に勤めた書店バイトのレジ打ちである。ここでは非正規雇用者はミスをする度に社員に奥まで連れて行かれる。そこで見せられるのは、レジの様子を録画し続けた監視カメラの映像である。釣り銭間違いがあれば、レジを操作する姿を録画した監視カメラの映像を見せられ「ホラ、ココ。ここで5円玉と10円玉を間違えてるけど、小銭の計算は出来る?5円玉と10円玉の違いは分かる?ちょっと言ってみて」と40代小太り休憩時間中にテーブルに足を乗せながらBLコミック読み社員、略してクソデブに「停止」「再生」「巻き戻し」「再生」の繰り返しで挙動不振に細微する私が画面に大写しにされる。


(ここでの私は、プロ野球珍プレー好プレーでショートフライをヘディングする宇野と、グラウンドにグローブを叩きつける星野をスタッフの悪意ある編集で「軽快なサンバの音楽と共に早送りでヘディングで外野に転がしたり、巻き戻しでヘディングを介して外野からショートの頭上に戻ったりするボールと宇野」と「その合間合間にフラッシュバックする様にグローブを叩きつけたり拾ったりを超光速で繰り返す星野」の珍プレー決定版映像で、当時腹がよじれるくらいに笑った小学生の頃に、今書いてる私もコレを読んでる貴方も意識が飛びそうになると思うが、「じゃあ私がお客様の役やるから自分が正しいと思う接客を今やってみて」と社員クソデブ、略して社ブの一言があるので、安心してトリップして、最悪な気持ちで戻ってきて欲しい。)


結局その本屋という名のレジ打ちバイトは、お客様から私宛に「無愛想で凄く嫌な気持ちになる店員に当たった」というお手紙を頂いた事もあり、3ヶ月程で辞めてしまっている。


勿論これは「ハズレ」の部類に入るが、いつになったら「アタリ」の番が来るのか、果たして私のサイコロにはハズレ以外の面があるのか不安で仕方がない。もうこれ以上贅沢は言わないので、「機械が壊れたら担当の人に『壊れました』と言いに行きそれ以外は機械を見守る職」とか「お祭りに出る屋台の横でひたすら焼きそばを美味そうに食う職」とか「宇野と星野の珍プレー映像を悪ふざけで編集するテレビ局員の職」の面で全然いい…いや、書いていて気付いたけど最後のヤツとかメチャクチャ当たりの面だ。もう超大当たりの面だ。


では珍プレー好プレーがフジテレビで復活さえすれば私がその職に就ける可能性もゼロでは…今開催されてるオールスターで阿部慎之助のレガースでドアラに膝の皿を粉砕される中田翔くらいのインパクトある事件が起きれば野球人気復活で珍プレー好プレー復活の可能性もゼロでは……ゼロだな。ゼロ。阿部今年殆どキャッチャーやってないし。