何故「文章の向こう側には機械がいるのではなく、肉体を持った人間が確実に存在する」という文章上のミスを許容できる広い心を持つ事が出来ないのか

人間は言語に頼り過ぎている。人間は他者が発信する言葉や文章から、その本質を抜き取ろうとする。


人は何の為に文章を書くのだろうか?
メモとして未来の自分へ宛てるため。思考の整理のため。妄想をモノとして残しておきたいため。
どんな意図があれ、我々が生きる社会においては作文能力は必須事項である。
小学校の頃から作者の気持ちを80文字以内で考え、中学では好きな娘へ気持ち悪がられない程度の熱さを注入したメール文章作成に苦しみ、高校大学ではエントリーシートにおける自己PRの書き方を教わる事になる。生きるため、そして自身の想いを伝えるために、どんな時でも人間というものは、文字羅列の最適な並び替えの為に七転八倒している。


ただ同時に、作文というのは我々の人間としての価値を貶める要因としても機能しているのだが、ここに文章という物の「公平性」を見る事ができる。自身が書き出した文章を一歩引いてみる事で、「自分はこんな事を考えているのだ」と改めて自分自身の心情を知る事は意外に多い。私もこのブログを読み返す度に若干引いている。「別人が書いているのかな」と自身の記憶を疑った事は1度や2度では無いが、今はそれは少し置いておこう。


しかし、これ程までに人類が言語、文章へ信頼を一辺倒させる必要は無いのではなかろうか。
誤字や脱字を1つでもすれば「お前は『他人様に文章を読んで頂く』という大人として当然の心構えさえ出来ていない」と詰られ、敬語の使い方を少しでも間違えば「最近の若者の敬語というのは乱れに乱れている、侍の様な喋り方になる」と、家庭では誰からも相手にされていないであろう上司の初老おじさんにグチグチ小言を言われる。


何故「文章の向こう側には機械がいるのではなく、肉体を持った人間が確実に存在する」という文章上のミスを許容できる広い心を持つ事が出来ないのか?何故そこまでして個々人の意思表明を言葉や文章にして明確にさせようとするのか?


「行間を読む」という言葉もある様に、人の心というのは文章と文章の間、つまり言語化されていない箇所にこそ『本当』がある。あらゆる物を文章化書類化してこそ意思疎通が可能になるこの社会だからこそ、「相手の心を慮る」を取り入れた個人と個人の関わり合い、個人と企業の関わり合い等が必要なのだ。




で、今。
履歴書を書いているんですけど…もうこういう前時代的な意思の表明は止めにしませんかね…「職歴にイヤに空いている期間があるみたいだけど…」みたいな無遠慮な質問を社会はしてくる訳じゃないですか…「大学を卒業して数年経った割には資格修得をしていた訳じゃないんだねえ」みたいなに疑問でこちらを殺しに来る訳じゃないですか…。今日言いたかった事はそういう事です……。