「有意義な時間を過ごした事が私にはない」という確固たる自信が私の中にあるからだ

何故かシフト表に空きが出来てしまい、一昨日から4連休となっている。


こういう休日にどういう過ごし方が出来るかどうかで、その人間のそれまでの人生における『時間の使い方』の上手さ、巧みさを見る事ができそうだが、私の場合は「さあ休日だ」といってもベッドの上で右半身を下にして寝たりベッドの上で左半身を下にして寝たりリビングで仰向けになってるおばあちゃんの「足が痛くて眠れない」という弱々しい声を聞くくらいしか特にコレといって挙げられるトピックがない。


男4女3で河川敷でバーベキューパーティーを行う人間が過ごした休日の24時間と私の24時間が同じ速さで流れていくなんて、どう考えても不平等すぎる。この世には『どうにもならない事』はいくつかあるが、その代表例として挙げられるのは恐らく「止むことの無い紛争」「発展途上国における慢性的な飢餓状態」「人種間や宗教間における差別意識からのいざこざ」ときて「何かやっても何もしなくても一日はいつも通りに過ぎ去って行く」が続くのだろう。


「私を取り巻く『時間』は無限の様で、実は有限である」と強く感じた事はこれまでの人生で何度もあって、それはマリオRPGをラスボス手前まで行ったらデータを消してリセット、また新しいデータでラスボス手前まで行ったらリセットを繰り返して何年も遊んでたら、股間部分からチョロっとした陰毛が生え出してきた時期にいつの間にか来てしまった時であったりだとか、大学を卒業して虚空を見たりTwitterしたりアルバイトしたりを繰り返してたらもう高卒の友達は社会人6年目になっていた時であったりだとか、父親が会社の同僚から貰ったニンテンドー64マリオカートを私に2万5000円で売りつけたあの日からもう10年近く経っていたのに気付いた時とか、1つずつ挙げ出すと本当にキリが無い。


過去に経験した良い思い出と苦い思い出、現在私が置かれている立場、これから先は一体どうやって生きていけばいいのか。どの状況に陥っても、どんな記憶が脳内に浮かび上がってきても、私は「時間が足りない」と焦るのだろうし、そうやって嘆くのを辞めないだろう。これも全て「有意義な時間を過ごした事が私にはない」という確固たる自信が私の中にはあるからだ。何も選択しなかった人間にはロクな物語がやってこない、というのがこの世界のルールであるらしかった。


どこかの場面で「何かを選び、何かを捨てる」という選択が出来ていれば、この流れ行く時間も、自信を持ってドブ川に捨てる事が出来ていたかもしれない。大学時代に弓道部に入ろうと思い、ウキウキしながら弓道部員募集の張り紙を見てみたら、ガレージみたいな所でハーレーの様な大きいバイクをバックにして「呼吸するかの様にレイプしてます」と考えていそうな人間たちがうんこ座りしてる写真に『部員募集 明るく楽しいサークルです 初心者歓迎!』との文字列が紙に記されていても、半泣きになって逃げ出さずにグッと我慢して部室の扉を叩いていれば、私に流れるこの時間も、何か変わっていたかもしれなかった。私なりの青春がこの瞬間に選ばれ、そしてその代償として貞操を捨てる事が出来ていたかもしれなかった。


ハッと気付けば1日が始まり、ウッと自慰を終えるともう1日は終わっている。日々という物に繋ぎ目が無いせいで、フッと意識を傾けた時にだけ、「時間」というのは日常の中に顔を出す。「有限の様で無限に見えて実は有限」くらいの距離感であの時間の野郎がいるせいで、どうにも日常が生き辛くなっているのは気のせいだろうか。まあ、今日は何が言いたいかといえば、お察しの通り「自慰を終えてモスバーガーに来たらもう21時!ショック!」という、ただそれだけなのだ。


皆さん。皆さんは自信を持って、時間をドブ川に捨ててますか?捨てるのがオナティッシュとお金だけの休日は、かなり寂しいものですよ。