女子に泣かされながら耳にしたのは「どうして人の気持ちになって考えられないの」

「何かを楽しみたい」という気持ちは人の心のかなり底に近い部分に根を張っている様で、その証拠にいい歌を聞くと「コレは私の事を歌っているんだ!」と私はなってしまうし、いい映画を見れば同じように「コレは私の為に作られたんだ!」となってしまう。物語に登場してくる架空の人間の『心情』やら『行動』やらに自分の気持ちを重ねてしまう機能が、まだ私にも残っている。いくら安い飯ばかり食べていても、いくら安い時給で働いていても、「向上心」とか「何かを愛でる心」みたいな物とは違って、『日常に楽しみを見出そうとする』という気持ちは意外に力強く、心の中にあり続けようとしてくれる。


幼少期に聞いた音楽や見た映画が、その人間の人格形成に大きく影響していくのは間違いない。どんな音楽なら気持ちが高まるのか、どんな映画なら自分は共感できるのか。自身を知る様にして、自身を育てる様にして、人は物語と触れ合っていく物である。カウパーをいつでも吹き出せたり、予備のウィスパーで部屋を埋れさせたりしている間に、幼少期をとっくの昔に「とっくの昔」にしてしまった我々大人たちであっても、『物語への感情移入』というのは、只々ゴミを排出するだけの日常にも、只々トイレにオナティッシュや汚物入れにタンのポンを捨てるだけの毎日にも、彩りを加えようとしてくれる。


思えば『感情移入すること』を子どもたちは幼少期からそれが義務の様に教育させられ、その身に刻み込まれてきた風に思う。国語の教科書を開けば「作者の気持ちになって考えろ」、女子に泣かされながら耳にしたのは「どうして人の気持ちになって考えられないの」、接客業のアルバイトでは「お客様の立場になって何が一番サービスになり得るのかを考えろ」。『人の気持ちを考える』という事が『感情移入』の第一歩の様に教えられてきたのが、我々大人である。


ただやはり大人になるに連れて、心というのも『急にネバネバした物が出てくるおちんちん』などと同じように、いつの間にか成長していく物で、そこで知るのは「僕たち私たちには出来ることと出来ないことがある」という事だ。『物の分別を知る』というのが果たして「成長」と呼んでいい物なのかどうかは判断しかねるけれど、社会は『夢を諦められる』『今出来る事をやる』という事が出来る人種を「大人」として認めようとしている節があるから、恐らくそれは「成長」なのだろう。


小さかった頃に「大きくなったらナンヤラレンジャーの黒ナンヤラレンジャーになりたい」とか「大きくなったらふたりは何キュアのキュア何ックになりたい」などと本気で信じられるのも、そしてそれが許されるのも、子どもにのみ与えられる特権である。


もう30近い大人が急に「何キュアになって肩に小動物を乗っけながら怪人を殺したい!」と叫び出しても『どちらかといえばお前がそういう怪人』となって何キュアに殺されるのだろうし、まあもう30近い大人が急に「ライトノベル作家になって印税で暮らしたい!」と叫び出しても『頼むから真っ当な人間になってくれ』と母キュアに泣き付かれるのだろうから、やはり『子どもにのみ感情移入が許される対象物』と『大人にのみ感情移入が許された対象物』も、また存在するのだろう。


個人的に『感情移入』の最たる物が何かといえば、やはり「エロDVD」であり「エロゲー」である。咥えてもらっても無いのに、狭い箇所に出し入れしている訳でも無いのに、この動画内に存在する『作者』の気持ちを考えただけで「口内の暖かさ」とか、「ヒダヒダのあの感じ」とか、『ああ成る程、小学校の国語の先生はこういう事を私に知ってほしかったのだ』と納得した事は1度や2度では無い。人の気持ちが分かる子どもで良かった、と今頃母キュアも咽び泣いている事だろう。『泣く』というのが「感情移入の最高到達点」みたいに私も感じていたけれど、これはどうやら間違いだった様で、私の場合「父と息子の物語」とか「おじいちゃんおばあちゃんが死ぬ話」とかなら、どんなストーリーでもオートマで涙が出てくるという事に最近やっと気付けた。完全に幼少期のトラウマの影響である。わざわざそんな思いまでして2時間映画を見るよりは、ずっとエロDVDを見て感情移入できた方が、やはりずっと良いのである。