すべての文字列の中で頂点に君臨するのが『物語』であると感じる

「勇気」がある人間こそ、日々に物語を始められる権利がある様だ。



おばあちゃんに甘い声を出してふんだくった1000円札で購入した『コロコロコミック』でも、時計は朝8時30分を指しているはずなのにそんな早朝から「子ども達にトラウマを植え付けたい」という一心で大人達が絵コンテを切っていたポンキッキーズ内でのミニアニメ『トイレの花子さん』でも、基本的には勇気さえあれば指の骨が折れるくらいの強さでの締め打ちでビーダマン全国大会を逆転勝利できたし、勇気があるから大事に大事にしてきたミニ四駆をオジサンにマグマに叩き込まれても警察沙汰にはしなかったし、「勇気がある」という事を「出たがり目立ちがりの愚かなバカ」として描く事で率先して前に出た足の速そうな男の子が妖怪の餌食になってしまう様な回もある事はあったが、基本的には「勇気があれば何でも出来る」が罷り通っているのが我々が住む社会であり、我々が触れる『娯楽』の中の常識でもある。


すべての文字列の中で頂点に君臨するのが『物語』であると感じる。


コレは火を見るよりも明らかで、例えば私がこのブログで自身のプライベートを切り売りし、何を言いたいのかよく分からないままに2000文字を書き終えても、私の懐には一銭も金は入る事はなくそれどころか喫茶店での席代としてジンジャーエールやアイスコーヒーと称する黒い水を100円や200円で注文して金銭をドブに捨てる事になっているだけである。『書く人間』の精神はこうしてドンドン削られていく。この世は一体どうなってるんだ?


では一方で『読む人間』の方はどうかというと、こちらもこちらで「何故わざわざ俺がブックマークを開きマウスを動かし文字列をクリックして赤の他人が遊戯王カードを盗まれたり、赤の他人の父親が赤の他人の昼寝してる妹に対して服を着たままではあるけれども正常位の体制で腰を動かしているのを見た時の感想を読んで俺まで落ち込んだ気持ちにならなければならないのか」と思わせてしまう様なのだから、やはりこの様な物語性皆無の超低俗ガリガリ元卓球部包茎ドロヘドロ文字列などに価値がある訳が無い事はすぐに理解して貰えると思う。「プライベートを切り売りする勇気」では、人に物語がやってくる訳では無い。


もっともっと『善良な方の勇気』を持たないと、物語は始まってくれないのだろう。「オシッコがしたいけど汚い公衆便所で用を足すのは嫌だから、家のトイレまでなんとか我慢する勇気」とか「出勤まであと15分だけど自慰がどうしてもしたくなったので、『この新着動画がどうかシコれるヤツであります様に!』と朝のイチかバチかに賭ける勇気」とか、そういう類の「勇気」では、やはり駄目な訳だ。


環境が人を育てるのならば、私がいるこの環境は「善良な方の勇気」を発揮しやすい場所であるのだろうか?


困難な事態と対峙し、自らの犠牲と責任を持って「俺に任せて先に行け!!」と仲間を先に行かせる様な展開が私にやってくるだろうか?「私が責任を持つ。だから好きにやりたまえ!」と部下に言い放つ事が出来る様な、会社の命運を掛けたプロジェクトに関わる展開が私にやってくるだろうか?今の所はそんな予定は特に無い。


環境が私に『善良な勇気』を求めてこない、という事に問題があるのではないだろうか?私だって物語を始めたいと常日頃思っているのだ。


ああ光り輝く物語。物語さえ始める事ができれば、簡単に日常を楽しく過ごす事が出来るだろう。『学校の生徒会長と付き合う事になったはいいが、若くして夫を亡くした母が再婚したいと私に紹介した相手は、なんと件の生徒会長の父親。姉弟という関係になってしまえば、これ以上関係を進展させる事が出来ない…そうだ!子どもを孕ませて既成事実を作ってしまえばいいんだ!』の様な日々が、きっとやって来てくれる。そして「さあセックスセックス!」と『善良なる勇気』を発揮する事だって出来る。


やはり環境が『私』という人間に追い付いていないのだ。という事は、まずは母に再婚して貰わなければ話が進まない。母に物語が始まる事を願って止まない訳だが、まあ私も人の子なので、「未だ見ぬ姉とのセックスを夢見てる20代中盤息子を持ってるなら、それは少し難しいかもしれないよね」とは思う。少し難しいかもしれないよね。ねー。