頼みを赦す

全員が全員、同じ物、同じ方向を見つめながら生きていく事は決して無い様に、全てを受け入れながら、全てを拒否しながら生きていく事も、人間にはきっとまた不可能な事であって、そう考えてみれば我々は人生のあらゆる場面で「肯定」と「否定」をビビンバでも食う様にグチャグチャのごちゃ混ぜにしながら日々を生きていくのだろうし、そういう混沌とした心のあり方こそが心に豊かさをもたらせ、例えば「子供」を「大人」に近付かせていく事にも、このビビンバは一役買っているのかもしれない。



出来るだけ多くの物事を赦せる人間が「器の大きい人間」だと世間的には認められる訳ではあるが、この世には皆さんご存知「理不尽なまでの悪」というのが存在している訳であって、そういう物への対処法すらなかなか見出せない人間も沢山いるのだから、さながらSF映画の様な「人類共通の敵」みたいな物は、意外と身近に存在していた、という事になる。


しかもコレは『目に見えない敵』という事でもあるので、更にB級パニック映画っぽさが強まっていく。また、黒人やブス、オジサン、調子乗りの女好きは率先して死んでいき、最後は『美男美女だけ生き残る』という点も少し似てる。



普通に生きていれば、どうあっても「理不尽な悪」と対面しなければならない場面が必ず(真っ白なパジャマを着て8畳ほどの真っ白な部屋でマジックミラー越しに化学者たちから24時間観察される様な生活であれば話は別だが、「そういう幼少期を体験した派閥」と「体験しなかった派閥」で人類を分けるとすれば、恐らく大抵の人間が前者に該当するとは思うので、このまま話を進める)やってくる。


それは地震や火事といった『災害』であるかもしれない。
それは暴行や盗難といった『犯罪』であるかもしれない。
それは突然の病気、突然の怪我といった『病』であるかもしれない。
それは親の離婚や退職といった『おとうさんとおかあさんの都合』かもしれない。
それは大学3年生の秋にニュースで報じられる『リーマンショックで大卒採用者激減』の音声かもしれない。
それは信じて田舎に送り出した彼女が、
連絡を全く寄越さなくなってから半年後に届く『突然のビデオレター』かもしれない。
それは魔王を追ってたらいつの間にか日本でテレアポのバイトをする羽目になっていた『なんで私がこんな事に…』かもしれない。
そこら辺の道端に転がっている石ころの様に、『理不尽な悪』はいつでもどこにでも存在しているのだ。


だがそれでも、それらを乗り越えていかなければならないのが人生である。何故なら我々はビビンバを混ぜなければならない。憎み恨み苦しみ『否定』した後は、それと同じくらいの強さを持って、赦して認めて受け入れて『肯定』しなければならない。
その繰り返しを持って、ビビンバを常にかき混ぜなければ、両手のスプーンを常に動かしていなければ、本当にいつか、心が止まってしまう様な気がする。私はそれが怖いのである。


『善』と『悪』がコインの表と裏の様な関係であるのなら、『憎しみ』と『赦し』も、きっとそうなのである。
日常生活を人間らしく生きている人間も、ふとした事でコインが裏返り悪人になってしまえる様に、私のコインも裏返り、遊戯王カードを盗みまくったマンチェスターシティのナスリに似てる大滝くんの事も赦せる日が、私にもいつか来るのかもしれない。



時間が必要である。
遊戯王カードを盗み、盗んだ翌日に私のカードを使って私に勝つ大滝くんの薄ら笑いが刻み込まれた心を癒す時間。幼少期に遊びに行った好きな娘の家のトイレが異様に臭かった事によって傷付いた心を癒す時間。高卒で就職した友達の居酒屋での「良いモノ食って、良い酒を飲む事。コレで良い仕事が出来るんだ!」という酔った声をウーロン茶を飲みながら聞いた事によって傷付いた心を癒す時間。



今すぐに赦す必要は、恐らく無い。
『明日の私なら…』
『来週の私なら…』
『来年の私なら…』
未来を生きる私に『赦し』のバトンタッチ。長い年月を経て、心の葛藤にピリオドを打てた時に、何となく一回り大きい人間になれる様な、そんな気がする。


ただコレは『来世の私なら…』にならなかった場合の話でもある。「何とかしてくれ、明日の私」と唇の皮をただ食う毎日では若干不安ではあるが、とりあえず今日はもう終わって5月10日の私にバトンタッチ。0時も回りそうだし、何とか頼む。


…頼む!!