君の赤い血が花弁に染まる

少しずつ暖かくなってきた。こういう「春」を感じさせる様な時期によく思うのが「お前らふざけるなよ」だ。

新聞では春の訪れを報じ、街では梅がそろそろ咲き始め、学校では新学期の訪れに学生が新たな出会いを妄想し、河川敷ではショッピングカートと一緒でないと外に出られない様な死にかけの老人が所狭しと散歩を始め、ニュース番組では宝塚音楽学校の合格者発表で、二つ折りになった掲示板が『パカ』と開かれた瞬間に発生する「歓喜する美少女」と「茫然と立ち尽くすブス」のコントラストを全国に発信する。(個人的にあの合格発表は日本が誇っていい伝統芸能だと思う。過去30年分くらいの合格発表の様子だけを収めたDVDがもし発売されたら、5000円くらいまでなら出す。)


春は何かを始めるにはうってつけの季節だ。気候も穏やかで、気温も暑すぎず寒すぎず、日中も過ごしやすい。ただ、その気候が、気温が、寒い冬に耐え「さあやっと春が来たぞ」と浮かれ出した人々のニヤニヤした顔が、春は出会いの季節!的な思想が、巷に溢れる「桜は咲いたけどキミはもうここにはいないの」的な同じことばっかり毎年毎年言ってるだけの楽曲の数々が、ブスの発する『コイセヨオトメ 春キャベツのパスタください』が、私は気に入らない。


何故メディアが操る「春といえば!」的な思想にアホの様に引っかかりに行く必要があるのか、何故「桜の儚さは人間の死を連想させて、切ない気持ちなるよね」と、4000万人くらいはもうすでに考えた事のある様な「えっ、まだそんな事言ってんの!?」的な『僕は悟りました 僕は悟りました』とでも言いたい様な恥ずかしい使い古された感想文を、アーティストは曲にし、そしてラップ調にしてまで歌う必要があるのか。新たな出会いを妄想する学生が、その内に自らの「できる事」と「できない事」という現実を知り、傷付き絶望する事になる「桜並木の中で、キミと歩いて行く」的なホラ話を、恰も「こういう嘘の様で本当の様な物語も、あなたも努力さえすれば手に入れることは出来るのですよ」という心地の良い言葉で騙す事だけが生きがいの日常系漫画家は、見開き2ページ使って『散りゆく満開の桜』『寄り添う男女』を幻想的に描く必要はあるのか。


春がもたらす気温が、天候が、湿度が、花が、旬の食い物が、流行りが、文化が、漫画が、楽曲が、私は気に入らない。『作 京都アニメーション』の様な美しい桜並木の中を、只々一人、下を俯きながら下校するブレザーを着たデブの高校生など、できれば私は一度も目にすること無く死んでいきたかった。

「春」という季節に甘える様に、出会いを求めて心機一転さあ頑張ろう!などと馬鹿な事を考えてはいけない。只々温度が上がり出しただけの1日に、特別な自分を、特別な日を見出そうと考える様な人間が、その日を境に「徐々に生まれ変わっていく」なんて事はあり得ない。

君はそんな人間では無い。「春だから」という「だから」に甘えている時点で、君は『桜吹雪の向こう側でこちらに向かって手を振るセーラー服の女子高生』という幻想に負けている。

そんな女子高生は存在しないし、目を凝らして良く見てみれば、それはきっと「お前が気持ち悪い顔をして手を降っているその場所は道路のど真ん中だし、すぐそこにトラックが猛スピードで迫って来てるから今すぐ道を渡れ!」と、必死に君に旗を振る緑のおばさんだ。そうして君は交通事故で死んでいくのだ。

秒速5センチメートル』とは桜の花びらが落ちるスピードでは無く、チェーンソーが桜の木に亀裂を作っていくスピードであるべきだ。ワシントンも言っていたじゃないか。「正直者なら桜の木も切っていいんだよ」と。流石、どんな時代でも戦争に勝てる国は違う。