読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

shade breakin

いつの間にか自分が記憶の取捨選択を行っていた事に気づいた時の怖さったら無い。記憶は美化される物だとは良く聞くが、記憶に無いとなると、美化させてくれる隙も記憶は見せてはくれなくなってしまう。
何を忘れてしまったかというと、「昔は毎日見ていたはずの風景」なのだが、こう文字にしてみると、何だか悲しくなってくる欠落した思い出だ。しかも「隣に住んでた仲の良かった友達の家が壊されたのはいつだったか」を私はすっかり忘れてしまっていて、誰に言うでもない申し訳なさも感じつつなので、やはりこういうのはブログに書いてガス抜きするしか無い。


忘れる記憶と忘れらない記憶の違いといえば、その「とある思い出」が、当人にとっては良くも悪くも「強烈な思い出」であるのか、そうでないのか、という事になるだろう。そしてそれはきっと否応も無く、大人になっても記憶に残ってしまう物になる。「たった一度の強烈な思い出」は「何と無く毎日見ていた思い出」に多分勝ってしまう、というのは、私の記憶に残っている思い出の数々からも見て取れる。良くも悪くも。

そう考えると、義務教育で「これが善」と教え込まれてきたはずの『毎日の積み重ね』なんて物は、『日常の中での予期せぬ出来事』に簡単に吹っ飛ばされてしまうあたり、何とも効率の悪く、そして労力の使う行動なのだろう。人間の性格であったり、オーラであったりを構成するのが「その人物のそれまでの人生における経験」であるとするのならば、家庭環境一つ取っても、「毎日毎日お弁当も作ってくれるし優しくしてくれたお母さんの思い出」と「父から自身の借金総額を始めて知らされ、たった一日だけ家族の前で泣き通したお母さんの思い出」が天秤にかけられた場合には、どちらがより人格形成に大きな影響を与えるのだろうか。相当ピンポイントな例えだけど。


オートマチックに捨てられた記憶の残骸を偶然見つけてしまったのは、今日バイト先に向かう途中で取り壊されている家屋を見たからだ。見た感じかなり古い家だったし、それは新築の家を別にどこかに建てるからなのか、それともそこに住んでた老夫婦が亡くなってしまったからなのか、壊される理由は分からないが、その家が無くなった結果、隣に建てられていた新しめの家が、隣にそこそこ広い空き地が出来る事でかなり開放的な印象を振りまいていたのが自分の中で結構強烈だった。(それにしてもこのブログは老いた人間の登場機会が多い)


私の実家の周辺も「毎年毎年死ぬほど雪が降る+車道から脇道に入った更にその先にある様な入り組んだ土地だったから除雪車も入りにくい、っていうか普通乗用車でも入り辛い」というクソの様な場所にある集落で、ご近所さんが毎年ドンドン引っ越していく様な所だったから、それに比例して取り壊される空き家も相当多かった。で、件の「有ったっけ?無かったっけ?」の家は、仲の良かったヨシキくんが住んでいた家で、かなり前にブログに書いた事のある家だ。そこでは「壊されて無くなった」と書いたと思うのだが、それがヨシキくんが引っ越した直後に壊されたのか、それとも少し時間が経ってから壊されたのかが、全く思い出せないのだ。


恐らく、以前ブログに書いた事によって『当時のホンモノの記憶』と『ブログに書く為に思い出そうとしてきて出てきた記憶』がごっちゃになっているせいだとは思うのだが、それと同じくらい不安になっているのは「もし壊されていたとして、私は子どもの頃にそれをどう思ったのだろう」という事。ヨシキくんとは本当に仲が良かったし、ヨシキくんその物は私の大事な記憶である事は間違い無いのだが、実はヨシキくんの家が私の家に当たるはずだった日光を思いっきり遮っていた事も、また私の中では結構な思い出になっているのだ。今日バイト先に向かう時に取り壊される家を見た時も、まず第一に思い浮かんだ事も「隣の家、日が当たる様になって良かったな」だったし。

果たして「友達の家が壊されて悲しい」と「台所が明るい!台所が明るい!」では、当時の私の中ではどちらに軍配が上がったのだろうか。取捨選択で忘れている辺り、いつの間のか自分の中で「別にもうどっちもどうでもいい」と思う様になった可能性もあるが、どちらにしろ嫌な話だ。