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reading -僕の私の読書体験-

最近、というかずっとゲームやアニメばかり見ているので「休日になって自分だけの時間を確保できても、ゲームをしたりアニメを見るだけのIQ低めな1日を送る事しか出来ない前頭葉小さめのバカ」と思われてるんじゃないか?思われたくないなあ、とすごく感じている。


「日々をもっと頑張る様に」と誰かに監視されている訳でも無いし、真っ白な服を着せられ、真っ白な壁、真っ白な天井の部屋に閉じ込められてマジックミラー越しに科学者が何人も見守る中で生活している訳でも無いから別にどんな1日を過ごしてもよいのだが、しかし「こんな1日で本当にいいのか!?」という心の叫び声が私を毎日毎日罵倒する。何かをやりたい訳でもないが、只々漠然と「ああ、今日も一日が終わる・・・テレビで見る様な巨万の富を得ている人間たちは今日も頑張っている・・・努力している人はたくさんいる・・・」という何となくな不安感がもうずっと続いているのは「一日を過ごすこと」すらも満足に私は行う事が出来ない、という何よりの証拠になっているのはないだろうか。


その不安感も365日ずっと続いている訳では無く、せいぜい280日間くらいを不安に過ごしているのだが、その残りの85日がまた問題で「面白い映画を見た」「お風呂掃除をやっておばあちゃんに感謝された」「アルバイトでお客さんを上手く捌けた」程度の出来事で簡単に件の不安感が消えてしまう所が自身の「IQの低さ」をより強く思い知らせてくれる。


何とか一日を過ごした気になろう、この不安感から逃げ出そうと趣味を作った事もあった。「第三者から見ればIQ高めの趣味」で「一般人が趣味にしそうな事」で「あまりお金もかからない」という条件を付けた中チョイスした『私にうってつけの趣味』が「読書」であった時期も一応あった。それは小学生の頃から「定期的に読書をするのが普通の人間のする事」という刷り込み教育の賜物で、「読書をする人間は頭が良い」という先入観が24にもなるこの私の肉体と精神にまだ住み着いていたという事もあったし、また私は「モテたいと考える人間一派」と「モテたいとは考えない人間一派」の闘争があるとすれば、どちらかと言えばモテたい一派の人間でもあったので、体もガリガリで運動も出来ず「負のオーラが出てる」と、とある日の夕飯の席で母親から言われるこの肉体でモテるには『コレぞ文学青年』を気取る事で、同じ大人しそうで教養のある女といつかのセックスを夢見る事くらいしかモテる為の努力が出来なかったのもある。しかしこの「作ろうと思って作った趣味」には「作ろうとして作った趣味」独特の苦労が勿論あったのだ。


まず本に思い入れも特に無いので「分厚い本は読みたくない」というのが第一優先される。それと表紙が怖かったり不気味な絵だったりすると夜怖いので「表紙が怖くないヤツ」を選ぶ。それと全く知らない作家の本を読むのは抵抗があるので、「聞いた事があって面白いと評判の本しか読みたくない」となる。また嫌な気持ちになる本はあまり読みたくないので、事前にネットで調べて「気持ち良い終わり方をするのか」を調べる。で、ここまで来ると段々『こんなに食わず嫌いで本を選んで読むなんて正しい読書とは言えないし、心からこの本を楽しむなんて事は出来ないのでは・・・?」と落ち込み、おばあちゃんが作ってくれた昼食のオニギリを「このふりかけで作ったのなら、外で食べてくるから要らない」と八つ当たりしたりする。


この後は「そのまま読まずに放置」か「それでも面白いらしいので読む」か「ご飯を食べるお金が無くなり、この前の出来事は無かったかの様にまたおばあちゃんにオニギリを作らせる」に分かれるのだが、読んだとしてもすぐ飽きる。『30ページまでは読もう、30ページまでは頑張って読もう』と何とか読もうとはしても、もうそれは只の「ノルマ」になってしまって、本の楽しさを感じる所では無くなってしまう。例え2週間くらいかけてやっと本を読んだとしても、それは『楽しい本を読んでいい体験が出来た』という純粋な気持ちよりも『私は本を読んだから教養がある人間なんだぞ!』という気持ちをアピールしたくて、読書メーターに記録したりTwitterに書き込んで満足したりと作家さんにグーで殴られて当然の様な本との付き合い方しか出来ない。


何週間か経って、放置していた本の返却催促の手紙が家に届いて母に怒られたり、おばあちゃんにまたオニギリを作らせたと母に怒られたり、24にもなってフラフラしてないでハローワークに行けなどと怒られたりと、読書のせいで私は散々な目にあってしまった。『結局はトロンとした目でアニメを見たり何にも考えないで済む単純作業のゲームしか私には出来ないのだろうか、という嫌な気持ちをいっぱいにする事しか趣味は私に与えてくれなかった。』というのが今日の題名にもある「私の読書体験」になるのだろう。「私はいつから本を読むという事に対してこんなに卑屈になったのか」を思い返してみれば、その思い出の代表格になるのは「夏休みの最終日におばあちゃん泣きながらの課題図書朗読事件」となるのだが、コレはまた機会がある時に書こうと思う。因みに私にはおばあちゃんが2人いて、私がオニギリを作らせたのが2人目のおばあちゃんとするのなら、号泣おばあちゃんは1人目のおばあちゃんだ。クソどうでもいいけど。