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「ん」という応答

「はい」だの「いいえ」だの、まどろっこしい!と応答でさえ面倒臭く感じる時がある。言葉を使うのが煩わしい、声帯を震わせるのが煩わしい。「分かったなら返事くらいしなさい!」と母に子供の頃は何度怒られたか分からない。彼女は人間の発する「んー」「あー」「おー」と言った唸り声には色々な意味が含まれている、という事を理解出来ないのだろう。


「またゲームばっかりして!宿題は終わったの!?」「…んー…(今日は宿題が無かったのでこうしてゲームをしているんだから…今いい所だし話かけんなよ…)」「本当に終わってるの?いつもいつもそうやって無視して!」「チッ…あー…(無視してるつもりは無いし、ちゃんと意思表示してるじゃないか!何なんだよ…!)」「しっかりしなさいよホント…もうこれからはアンタと妹と私の3人で生活していかなきゃならないんだから…いい加減にしときなさいよ…」「……」「……」「……」「……」
という様なある晩の一幕であっても、この短い応答の中の真意を、母がしっかり汲み取っていれば、この様な会話の終焉には至らなかったはずだ。

また、クラスメイトからのちょっとしたからかいに口下手なせいで上手く自分の言いたい事が伝えられなかった際での「んー」も、「もっと相手の心に『んー』以外の効力を発揮してくれよ」と思った事も多々あった。当時、私は電車で高校まで通っていたのだが、ちょっとした家庭の事情で(流石にプライバシーは守りたいので詳細は書けない)引っ越す事になり、最寄り駅が以前まで使っていた駅から一つ下った駅になってしまった事があった。なかなかこういう「急な引っ越し」は、もし知り合いに話して詮索される様な事があったら、嫌悪感で体にブツブツができてしまう恐れもあったので、なるべくその事は近い人間以外には伏せてあった。しかし、私の田舎はとんでもないくらいのド田舎で、私が住む区内に、電車の駅は一つしか無かった。(このせいで、小学校中学校の卒業式で「この学校と皆の事は忘れないよ!」と涙ながらに言っていた先輩とも1年後に駅で普通に会ってしまう様な、おかしな自体になっていた。)なので、元同級生たちの「アレ?あいつ、この駅で降りないの?」という目線というか、声というか、そういう「帰るべき家がある駅なのに、何故帰ろうとしないの?」的な注目が本当に辛かった記憶がある。


なので、高校は別で半年振りくらいに会う中学の仲のそこそこ良かったクラスメイトと偶然会った電車内、というイレギュラーと出くわした途中でも、「え?ここで降りないの?」「えっ、あっ…んー…(プライバシーの問題です)」「いや、マジで降りないの?冗談じゃないの?」「いやっ…あのー…今日はいいや…(プライバシーの問題です)」「…もしかして、家で何かあった…?」「……」「……」「……」「……」(プシュー)
みたいな応答で、「んー、という言葉の弱さ」を嫌というほど味わった。

そして現在、書いていて当時の猛烈に鬱々とした気持ちが蘇ってきて、何だか急に眠くなってきた。50音最後のテーマが、この様な最底辺に暗い話で良いのだろうかとだんだん不安になりながら書いていたが、高校卒業寸前の帰りの電車の中では、私は誰にも話しかけられたくなくて、ずっとボックス席の死角になる様な角度の場所で寝たふりをしていたし、この後寝るのでいいかな、と今思う。「んー」「プライバシーの問題です」の2つのセリフだけを使えば生きられる様な世の中であればどんなに生きやすかっだろうかと国をあの頃は恨んだが、今は車で時給750円バイトから帰りながら就活のいい時期にリーマンショックが訪れた世の中を恨んでいる。多分アプローチの仕方が違うだけだ。