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楽して2億

今日はランドセルの話をしようと思っているのだが、「楽して2億」というタイトルを考えた途端に、私の「楽して2億稼ぎたい細胞」が非常に活性化してしまった。ランドセルの話もしたいのだが、どうしても手が震える、足が震える、唇が震える。収まりがつくまで、少し「私の2億欲しい話」に付き合って貰えればな、とココでお願いしたい。なに、すぐ終わるさ。


しかし困った物である。私の中には確かに「楽して2億稼ぎたい」という願望はあるし、私という人間を構成する細胞の内の3%程は恐らく「楽して2億稼ぎたい」で出来ている事は認める。しかし、私は「楽して2億稼ぎたい」という願望に対しては「そうだね、楽して2億稼ぎたいよね」以外の感想を持ち得ないので、こうして文章に起こす必要性が全く無くなってしまう。「これまでだってあっても無くても良い様な記事ばかりブログに書いてきただろ!そのキーボードを打つ指の爪を剥がすか、今すぐ練炭と密室を用意してくれよ!」と全員が私に対して思っている事は明白ではあるのだが、せっかく爪の無い指で泣きながらキーボードを打つのだから、日頃感じた不平不満を出来るだけ面白おかしい文章で皆さんに『無料』で提供したいな、と思うのは当然の成り行きなのではないだろうか。ただでさえ「ちょっと頭のおかしいTwitterとブログとのアンバランスさが良い」というよく分からない評判を頂いている私である。せめてこういった場では「前頭葉使っているアピール」を世論に向けて発信しておきたいのだ。


ならば、まず「楽して2億稼ぎたい」というこの文字列に、どういった魅力があるのか、私が出来る限りの説明をしてみたい。まず何と言っても「楽に2億が懐に飛び込んでくる」という点。素晴らしい。我々の生涯の殆どが「労働の義務」に捧げられるという狂った現代ニッポンにおいて、これ程までに「人生の上がり」を感じさせてくれる出来事があるのだろうか?あの「スタートボタンを押すだけで1000万がある状態で始められる」桃太郎電鉄ですら、1年目の目的地到達1番乗りに送られる賞金は1億4520万円程である。コレは「2億があればボードゲームという仮想空間でさえ上回る程の幸福を手にする事ができる」という何よりの証拠では無いだろうか。2億があれば元気が出る、2億があれば何でも出来る。アントニオ猪木もこれからは「1!2!3!2億!!」の掛け声に変えた方が、オーディエンスの盛り上がりを煽る事だって出来そうだ。



しかし、ココでこの文字列には重大見落としがある。そう「2億稼ぎたい」なのだ。「2億欲しい」では無い。私は「2億稼ぎたい」と書いたのだ。

書き間違えでは無い。私はしっかり前頭葉を使い、右脳を起動させ、意識を持ったまま「稼ぎたい」と書いた。何故か。「欲しい」では、決して社会的地位を得られる訳ではないからだ。「稼ぐ」というワンクッションがあるからこそ、人々に舐められないで済む。只々「貰う」だけでは、「子供」から「2億貰った子供」に変わるというだけである。「稼ぐ」という「ある程度、私という人間が社会的に認められ」「全く苦労せずに作った何かしらを、よく分からない富豪が勘違いで絶賛し」「私の意思の通りに物事がトントン拍子に進み人々が勘違いをしたまま2億を手にする」という事で始めて「2億稼ぐ」という事が可能になるのだ。

我々は、「パチンコ行ってくるから車の中で待ってて」の言いつけ通りに1時間車内で妹と待ちぼうけを食らい、夕飯はその足で連れていかれるすき家で済ませ「今日の事はお母さんには言うなよ」という全く期待感も充実感も無い一言を帰り際に浴びせさせられる様な、そんな親の傀儡で動くような人間ではもう無いはずだ。只々2億を待つのでは無い。もっともっと都合の良い想像を繰り広げた上で2億を手に入れる。それこそが「楽して2億稼ぐ」という事なのである。自分の意思で、社会に顔向けが出来る程の地位を手に入れるというのが、どんなに幸せな事か、私にはまだ想像が付かない。だって私はまだ「2億」を稼ぎ、手にしてはいないのだから・・・





・・・ランドセルって紺色とかかっこ良くていいですよね。