ヤッテヤルデス

スポーツが死ぬほど苦手だった。野球、サッカー、バレー、ドッジボール、白玉がいくら気管に入るか我慢比べ、といった球技は勿論、水泳、スキー、鉄棒、縄跳び、跳び箱、白玉を亀頭そっくりに彫刻刀で削り美術の先生にベニヤ板でぶっ叩かれる、といった学校で必ず行われる種目ですら、一つも上手くいった試しが無い。何故子どもは「運動が出来る」という事が義務の様に世間から押し付けられなければならなかったのか、未だに疑問だ。部屋の中にずっといる事がそんなにいけない事なのだろうか?白玉で体のあらゆる箇所を虐め抜くのが好きである事は、そんなにいけない事なのだろうか?自分の体が思った様に動かずに、軟式ボールをメガネに当てて曲げてしまったり、女子からのトスをメガネに当てて曲げてしまったり、逆上がりの勢いで落ちたメガネを着地で踏んで曲げてしまったりといった愚行ばかり重ねていれば、「スポーツをやる」という選択が脳内から綺麗さっぱり消えてしまったのも、当然の成り行きであったのだろう。嫌いだから、動かない。動かないから、出来ない。出来ないから、嫌いになる。そういう悪循環。



ボールが怖い、体を動かすのが怖い、人に見られているという事が怖い。そんな時に私が出会ったのは、何かのキッカケで家にあった「実況パワフルプロ野球」という野球ゲームだった。とにかく素晴らしいゲームであった。なんせ角張ったミートカーソルを上手く操作し、投げられるボールにタイミングを合わせて○ボタンを押しさえすれば、自分で振ったバットで太ももを思いっきり打ち痛みで気絶しそうになっていても「振ったから三振だぞ!早く次の人にバット渡せ!」と体育教師に怒られる様な事は全く無く、パワプロくんは当たり前の様にボールを前に飛ばせてくれる。守備の際でも、サードへの簡単な当たりを一塁に投げる時に「もしエラーしたらクラスの足の早い男子達に笑われる」と怖くなり、走ってボールを一塁に届け様としなくても、パワプロくんは当たり前の様に捕球し、○ボタンを押すだけでほぼ確実に一塁へ返球してくれる。例えエラーしても、足の早い大野くんや清水くんに怒られる事も全く無い。ゲームの世界の阪神甲子園球場には大野くんの姿も清水くんの姿も全く見えない。



元々スポーツゲームというのは、そのスポーツが好きな人間がやって、現実でもゲームでもその種目を楽しむというのが普通なのかもしれないが、運動が嫌い、出来ない、運動で怒られるのが怖い、という運動に親でも殺されたくらいの感情を持っていた私が何故パワプロを手に出来たのかは置いておいて(多分父がやっていたのを覚えていたとかそんなんだろうとは思う)「自分の望んだ通りの動きが出来る!」というのは、それはゲーム上の話と言えども、始めての経験であったし、感じた事の無い楽しみに包まれた瞬間でもあったのだ。



こうして私は「スポーツは出来ないけれど、ゲームから入って『観る』専門になった人間特有のパワプロやらウイイレやらから知識だけ得てまるで永年このスポーツを親しんできました顔をする人間」となっていく為の第一歩を踏み出した訳ではあるが、今の私の「スポーツの楽しみ方」を幼少期の私が知ったらドン引きという言葉がまだ当時には無いのに「ドン引き」と言われるのではないだろうか、とは思わなくも無いが、ただ今ではあの頃の大野くんや清水くんの怒声は、労働関連に当てはめてみれば、テンプレで使えそうな程にソックリになってしまったので、そういう感情をぶつける対象が変わっただけなのかな、と今は思う。白玉を亀頭そっくりに彫刻刀で削る事だって「善」とは見なされませんからね、未だに。