読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

世界と始まりが終わり

生きるのが大人になるに連れ辛くなっていくというのが人生である様だ。悲しい事、辛い事、嫌な出来事は毎日当然の様に僕らの生活に無差別に降りかかってくるし、そういう時に限って「タイミング」という物が合わなかったりする。それに加えて厄介なのは大人になると生じてしまう「責任」という憎き野郎だ。


ちょっとした一挙一動にも、あるべき大人としての姿を取らねばならぬこんな生活に、一体誰がしたのだろうか。もう僕たちには小学生の様に勉強に只々追われる日も、無邪気にデパートを走り回る事も、近所の捻くれババアの家の塀と塀の間に雪玉を投げて通り潜らせる事ができたら10点、標的がズレてババアハウスの窓に直撃したらマイナス30点、ババアがキレて家から飛び出してきたら100点の投球のコントロールとチキンレースを混合させた最強のゲームであり冬の遊びの代名詞、「ババアん家豪速球」ももう出来はしないのだ。もうそういった季節はとっくの昔に終わってしまったのだろうし、この間本屋のアルバイト中に、夜になってもう行く所が無くなった田舎のヤンキー達が万引きをする様な素振りをしつつギリギリで万引からない、店員さんに構ってもらいたがる様な行動を見咎める立場になったので、どちらかと言うともうババアハウスサイドの人間になってしまっていた。あのババアの気持ちを味わう事になるなんて、時という物は何と残酷なのだろうか。出来れば一生知りたくはなかった。


そういった辛い出来れば出来事が起きた時、解決策は僕の場合は「とにかく寝ること」だったりする。寝るという行為を簡易的な死と捉えると同時に、気持ちのリセットとして扱う様にして、只々問題から逃げる日々を送っているのだ。ああ、眠りたい。


しかし、時々「寝る」という行為が怖くなる時がある。睡眠から目覚めなかったらどうしよう、とか、意識が急に途切れて睡眠状態になってしまうのが怖い、とかで頭が一杯になってしまう事がたまにある。今でこそ回数は減ったが小学生、中学生の頃はよく寝る事に怯えて中々寝付けずに睡眠不足になっていた。一番怯えたのは「ノストラダムスの大予言」の時だ。1999年の7月だったと思うから僕が小学2年生とかそこらだったはずだ。純情で可憐な小学生だった僕は当然大予言を信じ、「自分は7月に死ぬのだ」と確信していた物だから、6月30日の布団の中で震える様に怯えていた。眠い、だが寝たら死ぬ、すごく眠い、だが寝たらもう目覚めない、どこに死んだら行くんだ、本で読んだ、人はずっと眠ってる様な状態になるんだ、でも何で書いた人はそれを知ってるんだ、当てずっぽうか、ふざけるな、と朦朧としながら不毛な自問自答を繰り返していた。当然、世界は僕の予想を反して終わらなかった訳だが、ノストラダムスの大予言も「7月」としか言って無い訳で、そんな夜の生活が1ヶ月も続けばちょっとしたトラウマにもなる事を分かって欲しいし、その時の両親の僕に対する対応もかなりそんざいで、半笑いで寝かしつけようとしてくるその姿がまるで死を望んでいるかの様に見え、恐ろしく感じた事も付け加えておきたい。あれは確実にノストラダムスの手先であった。子供を寝かしつけ、死に追いやる集団だ。残虐だ。


未だに僕が寝る事が怖く感じる原因は「睡眠=世界の終わり」という方程式が辛うじて僕の中に残ってしまっているせいだと思うのだが、どうか。今は世界滅亡論がテレビとかでやっているのを見ると「来た!やった!」となる。それも問題だとは思う。メンタルとしては常に半分、死を望んでいる様な物なのだろうか。そういった意味ではお手軽に死を経験出来る睡眠は素晴らしい発明であると感じる。しかし、今になって考えるのは1999年の7月に子供の頃の僕を寝かしつけた僕の両親の心境だ。やはり少し破滅を期待していたのだろうか、それとも全く信じていなかったか、或いは興味すら無かったか。少し気になる。それと最近話題のマヤ文明の方は件のノストラダムス先輩に比べて勢いが無いので世界破滅に至るまでは少し役者不足感が否めない。ノスダム先輩の後継者はまだ出て来ないのだろうか。ローテーション的に考えれば次は5年後辺りに来るのだろうか。先は長い。