叱咤激励という名の自己主張の正当性を誇示するのを今すぐ辞めろ。

他人への悪口というのはどうやら2種類あるようで、例えば「お前のためを思っていってるんだぞ!」とわざわざ言い訳を挟み込む事で自身の正当性を主張してくる『叱咤激励』という物と、もう一つは単純に他者をどうにしかして傷付けたいだけの『馬鹿にした文言の羅列』が挙げられると思うが、そもそも悪口というのが自身と他者とが同時に存在しないと実現できない意思の伝達手段だと仮定するのなら、その2種類というのは結局は受け取り側の匙加減次第とも考えられる訳であって、どれだけ「お前を殴る俺の手も痛いんだぞ!」と叫ばれても、「自分が悪いとは考えないの?」「一回教えた事がなんでできないの?」と35歳ベテランアルバイト天然パーマシフトリーダーに嫌味ったらしく顔を近づけられても、「1年半前から尾行されています!」と胸の前で両手をクロスさせながらYouTubeに迫真の演技動画を投稿されても、「俺が不快になってんだからお前が悪いんじゃボケ」と、受け取り側が自身の正当性を主張するのは全く間違っていない。悪口が受け取り側に評価基準を委ねられている限り、私の「お前が死ね」を、一体誰に歪める権利があるというのか。


出来れば生涯に渡って「怒られる」という行為はされずに荼毘に付したい。「生涯激怒不受大声不聞静音室内寝毎日九時間五千兆円口座振込」の戒名を貰いたい。全人類がそう思いながら日々を何とかやり過ごしているはずなのに、この世には一定数の「怒りたがり」がいるから迷惑だ。
大人になれば怒ってくれる人も貴重になってくるなどという意見は聞きたくない。私が選んだ判断が正しく、私が話す言葉が的を得ていて、私が右ウィンカーを出して右折するのなら全ての車は急停止しなければならない。
ずっと前に遊んだゲームで、「俺は悪くねえ!」と言って街を一つ消滅させた主人公がいたが、あれは正しい。私はゲームの主人公ではないので件の登場人物は死して当然だと思うが、私には関係のない事だ。ただ、「俺は悪くねえ!」という精神だけは見習わなくてはならない。俺は悪くない。


何故人は「怒る」という事で自身の正当性を誇示しようとするのか?先日の時給780円労働では、年下のアルバイトがスタッフ間での連絡帳に要点をまとめられていない長文を書き連ねた時は「何故お前が見て推敲してやらないのだ」と何故か私だけが怒られる。ストレスなのか胃腸の調子が悪いと実家に帰ってから胃薬を飲んでいれば、母には「なんで腹が痛いのか原因も考えた事もないんだろ!!」と家の薬を飲む権利を取り上げられる。全人類がサンドバックとして誰かしらの正当性という名の拳をレバーに叩き込まれている毎日がここにある。
もう散々私たちはもうずっと、各々が各々に怒りを向けてきているはずだ。何故あそこで勇気を出さなかった?何故あそこで諦めた?何故俺は俺なのだ?毎日のように自身で自身のケツに蹴りを入れてきた毎日を過ごしてきたはずなのに、それに加えて「お前が悪の根源」とよく知りもしない人間の主張を「ハイそうでございます」と靴を舐め回すような真似をしなければならないのか。


誰もが想像力を持つ必要がある。何故彼はその選択肢を選んだのか?間違ってはいたが、何か理由があったのではないか?ご飯を食べていないのではないか?最近野菜を食べていないのではないか?同じコミュニティ、しかも業務における作業の中であれば、上下関係は「指示」という形を取ってより明確になる。事情を勝手に察してあげるというのも、必要な伝達手段の一つなのではないだろうか。
私も明日からまた労働が始まるが、それはそれとして、業務中のミスには厳しくいくつもりだ。それはそれ、これはこれである。何せ「私が全部正しい」のだから、私を怒らせたあちらサイドが全部悪い。俺は悪くない。慮る?知らねえバカ、俺の靴でも舐めてろ。