履歴書をもう書きたくないという気持ち

「年相応」という言葉がある。

曲がりなりにも28年生きてきて、その積み上げてきた年月に相応しい振る舞いという物が私にも備わってしかるべきなのだが、私自身が積み上げてきた物とは一体なんであったのか、正直検討が付かないまま毎月毎週毎日と時間だけが過ぎていく。

 

 

真っ白な履歴書の片隅から、名前と、年齢と、生年月日とを、順々に書いていく。

前の職場を辞めてから、とりあえず…と就いたレンタルショップのバイトもそろそろ10ヶ月になろうかという所で、人件費の大幅なコスト削減が決まり、働ける時間が目に見えて減り出した。何でもグループ全体で見た所の営業利益が去年比で5割ほどになっただとか、その原因は本社で調査中で不明だがとりあえずすぐに結果が出る人件費から削っていくとか、店長から何かしらの説明があった気がしたが、所詮アルバイトである私にとってはどうでもいい事で、まず大事なのは貰える金が減る事であり、そして実家にいる時間が今以上に増えてしまう事だ。母と顔を合わせるのがなんとなく気まずく、休みの日はどんなに持ち合わせが無くても家で一番近い本屋と喫茶店まで車で40分かけて時間を潰しながら何とか誤魔化してきた。

だが、これ以上は私の財布も、大学卒業時に母に65万で買ってもらった14万キロ走行済みのダイハツムーブも限界が近いうちに必ずやってくる。早急な履歴書の作成が、私にとっての急務であった。

 

 

1988年11月25日生。もう人生で何度書いたか分からない数字と漢字の組み合わせを、美白、というよりかは「洗う」という概念を知らない哺乳類の毛色の様な顔色をした自身の顔写真の下に今日も記していくと、恥ずかしい様な居心地の悪い様な、そんな気分になる。

私という人間は変わらずここにあるのに、携帯のバッテリーは減っていくし、モスでは蛍の光が流れだすし、2時間前に自慰した私のおちんちんはグッタリとうな垂れたままでいる。顔写真と生年月日の記された私と、今ここにいる私とでは、一体何が違うのか。自分はもしかしたら瞬間ごとに年を重ねているのでは?と錯覚を覚えたりもするが、残念なことにそれは現実に起きている出来事である。実際の28歳は、履歴書を書く度に、自身の年齢と自身に流れる時間とのバランスが決壊した瞬間を実感として感じたりするのだろうか。その体験を「年相応」と呼ぶのかは分からないが、多分違うという事は何と無く分かる。