蓋を開けて人様のウンコを見るよりかは「あるぞ…あるぞ…

ここ最近は仕事が休みの日も休みでない日もペルソナ5ばかりやっているので、深夜に夜食を取る事が多い。昨日も家族が寝静まった頃に自室から台所に降りて、夜食のカップ焼きそばUFOと白飯をレンジで温めて食う。*1ペヤングも美味いが、私はどちらかといえばUFO派だ。ペヤングよりUFOの方が何故美味しく感じられるは分からないが、とにかくUFO派だ。容器が丸くて食いやすいからだろうか。味関係ねえな。

 


台所で洗い物をする度に三角コーナー内の生ゴミに必ず目が行ってしまう。
女体の形をした大根が捨てられてるのを探している訳では無い。
連想するのは「この場で考えうる限りの最悪のイメージ」である。

 


「洗ってる途中に手が滑ってドッロドロに溶けつつある野菜クズ集団の所へ箸を落として突き刺さったらどうしよう」
「箸を救おうと手を伸ばした時に変な所に引っかかって、三角コーナー内の生ゴミを全部洗い場にブチ撒けたらどうしよう」
「明日以降、夕飯を生ゴミに刺さったこの箸を使って食うたびに三角コーナー内の惨状が頭に浮かんだらどうしよう」
そんな事態に陥った事なんて1回もなかったはずなのに、何故だかそんなイメージが頭の中に流れ込んでくる。三角コーナーに限らず、映画館とかの広めのトイレに行ったりすると、「もしかしたらあそこの便器、ウンコを流してないのでは?」と、若干見に行きたくなったりする。見たい訳では勿論ないんだけど、何故か無性に気になってしまう時がある。便器の中に女体型の大根がある訳でもでないのに。

 


もしかしたら、最悪な展開になった時にショックを受けない様、心に保険をかけているのかもしれない。


中学生の頃、担任だった東条先生との面談を終えて家に帰ってきた母の第一声だった「先生、アンタの口が臭いってよ!」を聞いた翌日、登校するとクラスの女子のほぼ全員、心底嫌そうな顔で私の姿を見る度に鼻をつまむ仕草をしだした辺りから「“心の準備”というのは心へのショックを軽減させる為には必要な事だ」を無意識下でも実践できる様になっていたのだろうか。

 


確かに1、2、3のドン!で便器の蓋を開けて人様のウンコを見るよりかは「あるぞ…あるぞ…ウンコあるぞ…」と知っておいて便器を開けた方が精神的にはマシなのかもしれない。ただ、この場合どちらにしても私は知らない人間の流してないウンコを見てしまっている訳で、何がマシなのかはよく分からない。


そもそもこの場合における諸悪の根源は「ウンコを流さずにトイレから帰っていくバカ」である。毎回トイレに行く時はハンケチーフを持って消毒用アルコールを掌にブチ撒ける事を欠かさない私が、一番の心労を抱えている事に納得がいかない。その場における一番避けたい物を避けたいが為に“見ておく”“知っておく”というのは、我ながら不思議な習性だ。

 


そういえば、今嵌っているペルソナ5でも「認知」という言葉がキーワードになっている。「人は見たい物を見たい様にしか見ない」という人間の習性が物語の核に組み込まれているのが面白い。
一見同じ様に見える事象でも、見る視点が変われば全く違う意味を持って各々に受け止められるというのがベースにありながら、主人公たち怪盗団が“見る”視点と“見られる”視点とを織り交ぜて物語が語られていくので、なかなか一筋縄ではいかないストーリーになっている。ただここまで書いて「三角コーナーと流してないウンコからペルソナ5を連想するのはおかしくないか?」と日本有数の大企業様アトラスに申し訳ない気持ちが出てきている。
「人は見たい物を見たい様にしか見ない」のであれば、私がペルソナ5を起動する度に今日のこのブログを連想してしまう前に、キーボードを叩くこの手を今すぐ止めるべきだ。

 

 

 

寝食を忘れてプレイするゲームが久々に出てきました。 

ペルソナ5 - PS4

ペルソナ5 - PS4

 

 モルガナが可愛い過ぎてボコボコにしたくなってきませんか?

*1:多分今日も