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犬はあいつらはいつでも人様に向かって吠えに吠え「ここにいる全員の腱という腱を噛み切ってやる」とチャンスを窺っている野蛮な生物なので苦手である。

どんな人間にも「苦手な物」がある訳である。
『労働という義務をこなさなければ母の前で飯を食うことですら罪悪感を感じてしまう様なこの労働主義の歪な社会』や、『せっかくの日曜に部屋で一人で録画したアニメやメタルギアソリッド5を消費していると午後21時くらいに疲れからか、ふと脳内に【真っ暗な部屋で液晶の光だけに照らされる自分の姿】が俯瞰で見え“アレ?俺ってホントは死んでるんじゃないか?”と正体不明の違和感に襲われる一瞬』などは全人類が共有している「苦手な物」であるが、それに加え、人には「個人がそれまでの経験や環境で図らずも得てしまった固有スキルとしての苦手な物」も付与されてしまう。


好きな人、好きな物、好きな事が生きていく中で増えれば増えるほど、また同時に苦手な人、物、事も積み重なっていく。成長と共に、心が豊かに、身体は大きくなっても、我々が得るのは結局は『好き』と『嫌い』の数が大きくなっただけのプラスマイナスゼロである。


そんな中でこそ、楽しいこと、夢中になれることには価値があるのだが、しかし『好き』とは違い『嫌い』は、心の中でいつでも自身の居場所を大いに主張しながらご登場と相成るから、決まりが悪い。『好き』は無意識的な中でスッと消え入る様に現れてくれるが、『嫌い』は中々そうはいってくれないのだ。急いでいる時に限って赤信号に引っかかるのは、焦りが赤信号を意識的にさせているからであるし、お小遣い最後の150円を使って遊戯王ブースターパックを開けてみれば、いつでも出てくるのはマンモスの墓場かカルボナーラ戦士だったのは、KONAMIの「子どもたちにいつまでも遊戯王を愛してもらえる為の工夫」であるし、いい選手を作れた時に限ってダイジョーブ博士の手術に失敗するのは、KONAMIの「お客様に長くゲームを遊んでもらえる為の工夫」である。


得てして「好き」は見つけにくい。
私も楽しいこと、好きな物を挙げろと言われると難しいのに、苦手な物を挙げるというのは「朝、いつもの起床時間より10分早く起きる」「和幸のおかわりしたキャベツにドレッシングをかける」の次くらいに実践してみたい行為だ。
犬はあいつらはいつでも人様に向かって吠えに吠え「ここにいる全員の腱という腱を噛み切ってやる」とチャンスを窺っている野蛮な生物なので苦手である。
発泡スチロールが擦れる音は耳の中から3m級のサザエの肝が飛び出してきそうな気がするから苦手である。
ジャムやふりかけは「味も何もしない食パンや白米も舌の上さえクリアしてしまえば後はOK」的な考えが苦手である。
端数が出る買い物は店員さんとのお釣りのやり取りが数瞬でも延長されるのが本当に嫌なので苦手である。
仕事の出来る年下は私が仕事でミスした時に上司と一緒に呆れた笑いをされると動脈がキュッ!となるので苦手である。
食べにくい果物はそれで「流通いける!」と考えた農家たちの怠慢が見え隠れするので苦手である。


苦手な物、嫌いな物が溢れる私の様な人間の心の中においては、『好きな物で自分を語る』という前に、『何が好きな物なのかを見つけておく』という大前提ですら、ちょっと危うい様な気がしないでもない。
以前、職場の安全教育で「趣味を見つけてストレスフルな生活を改善しよう」という様な指導があったが、人間の心をそういう風に理数っぽく「こうしてこうするとこうなる」と言われると釈然としない物も感じるし、ってまた1個苦手な物が出来ている。


…まあ、こうやって苦手な物事で「書く」っていう行為でブログに1つ記事を書けたという事で少しはプラマイゼロに近付けた気もするけれど…しかし好きな物を多く持とうと言っても、昨日までの嫌いな物事が無くなってくれる訳でもなく、明日からも嫌な出来事はいつも通り身に降りかかってくる訳なんだけど、また新発見が行われてプラマイゼロが大きく崩れてしまう前に、今日のブログは終わりにしたい。