読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

「生活を休みたい」とアルバイトを辞め無限を手にしては後悔し

例えば先週、瞬く間に消えてしまったG,Wなんかは“数日間の休日”という有限な物であるからこそ有り難みを感じつつ午前9時まで寝ていられる訳である。
終わりが見えているからこそ今までできなかった事が出来たり、その限られた時間を有意義に使えたりする訳で、自慰をしたりエロ動画を探したり偏差値を3まで下げながらソーシャルゲームでガチャを引いたりする以外全ての脳髄が活動している時間で我々が常に欲している“365連休欲しさ”も、果たしてコレを実現させる事は有意義に使える時間が増える事とイコールなのかと考えると、少し疑問が残る。


(因みにG,Wというのは「学校の英語の授業にカナダからの外国語指導助手という事で」「私のクラスを担任していたジェフ先生が任期を終え母国へ帰る際、その日のお別れ会でのクラスみんなでの校歌斉唱の声が小さかった事に教頭先生マジギレ、ジェフ先生どうしていいか分からず教壇の前で45分無言事件」を略したG,Wでは無い。このブログを読んでるジェフ先生くらいしか勘違いしないだろうが、念の為。)


「生活を休みたい」とアルバイトを辞め無限を手にしても毎日毎分毎秒続く不安感に追いかけられるのに疲れ果て、「生活にメリハリが欲しい」と手に職を得、我が身を有限の中に落としてみれば休みたいと後悔する。
この様な有限と無限の追いかけっこに、いつ私は見切りを付けられるのかがあやふやなまま、私はいい歳をした大人になってしまっている。こんなのは勝っても負けても私には不利益しか齎さない出来レース、全ての馬に0,8倍のオッズが付けられたこの日々に一体何の意味があるのか分からないまま、私は二十数年間を生きてしまっている。


今、私は職に就き、平日に自由に使える時間といえば帰宅後の精々4時間程度である。しかし、ここで大事なのは「限られた時間をいかに有意義に使うか」ではない。「いかに限られた時間を消費した事を後悔しない行動を取れるか」である。
結局、私の中の「休みたい」と「適度に休みたい」の有限と無限の出来レースは一生付き合っていかなければならない案件なのである。
ならば「仕事に生かせる資格勉強を」だの「上司とのコミュニケーションを円滑に取れる様に自己啓発本を」などという32歳Facebook小デブが32歳Facebook小デブである為の自己満足で時間を潰すなど愚の骨頂である。
何をしても、何を食っても、何を見ても、何に金を使っても、何時に寝ても、何で自慰しても、2時間後には「もっと自分の為になる事に時間を使うべきでは無かったのか」と有限を悔やむのが私である。2日後には「何故ちょっとした行動にも後悔を感じる様になってしまったのか、これは一生続くのか」と目の前の無限に愕然とするのが私である。


何より重要なのは「如何に自分を誤魔化せるか」なのだ。自慰をしたり、エロ動画を探したり、偏差値を3に下げてソーシャルゲームに興じる、この様な時間の使い方こそ人間のあるべき姿であるといえる。時間を時間と感じない案件にこそ意味があるのである。


考えてみれば、この毒にも薬にもならない、皆がもうすでに理解している物事を薄ーく延ばしたこのブログの存在自体が「時間を有意義に使った気だけはする」案件その物である。私はこのブログをGW以来の1連休の内の2時間を消費して書き(ここでの『GW』は前述の通り「学校の卒業文集で “クラスみんなへの第一印象は?という質問で」「私の箇所には“クイズを出すのが上手い”と書かれてありました」の略です)この文章を読まれた皆さんの平日の貴重な夜のひと時を『空欄にした』という実績も付く、正に至れり尽くせりの無料サービスであるという事をここで声を大にして言いたい。言いたい。