「やさしくなりたい」「強くなりたい」とは、誰もが抱く願望である

「やさしくなりたい」「強くなりたい」とは、誰もが抱く願望であるし、勿論私も例外ではない。


私が「もっと優しさを持って接してさえいれば…」「もっと私が広い心を持った強い人間であったならば…」と後悔した事も、1度や2度では無く、100度や200度では足りず、100万200万でやっと及第点、1京2京でお前は人を何だと思っているんだといった有様である。


しかし相手が欲していたはずの対応を取れていれば何かが変わったはず、というのは少し傲慢な考え方かと自分で書いて自分で今思うが、そこはあなたこそが優しさと強さを持って然るべき課題にしておこう。これ以上私の大脳皮質にこのブログ発信で荷重を与えないでやってくれ。


いま、『インターネット』という名のちょっとした高台に登って見渡せば、履いて捨てる程の出会いと別れが確認出来る。出会いとは即ち人と人との触れ合いであり、そこには良くも悪くも興味があり、愛がある。この事からも私が生きるこの時代は私が欲して止まない優しさや愛に溢れた時代と言っていいはずなのだが、何故か私の周囲は流行に遅れに遅れている。


小学生のころに下痢と腹痛で2日学校を休んでいる間に私に「ウンコマン」「ゲリ田ビチ夫」のあだ名を瞬く間に定着させた中田くんを許せる程のやさしさすら私は持つ事が出来ていないし、私より3年先に就職した妹が久々に帰省した日の夕飯、家族全員にプレミアムゴールドが配られる中、1本足りなかったのか私の小皿の横にだけ麦とホップの缶が置かれるのを見ただけで胃が消化液のストライキを敢行するレベルで私の心は強くないし、春に入社した会社の3歳年下の4頭身同期デブにタメ口を訊かれただけで同じく同期の20歳の青年に半ギレで当たるのが私である。


風の谷のナウシカを未だ見た事もなく、2クール目の録画したアニメの感想を泣きながらインターネットに報告し、去年4人組で行動する黒づくめのオタクを掻き分けてブックオフで夢を叶えるゾウを買うほどに流行に疎い私ではあるが、いくらなんでもコレは酷すぎる。
この様な事態に陥った責任は、一体どこにあるか。


勿論決まっている。
社会である。時代である。
愛が溢れているのがこの時代であるというのならば、それに比例して人々に「やさしさ」や「強さ」に満ち満ち溢れているはずである。
愛がそこにあるからこそ優しさや強さがまた派生していくのであって、突然変異の様にどちらか一方が突然現れる訳ではない。従って愛が容易に芽生える土壌作りこそが重要だったのである。


胃腸が弱い私の様な子供を産んだ子作りから間違っていたのである。
下痢休みを友達に言いふらされない友達つくりから間違っていたのである。
下痢休み連絡受け取り即「おはようございます!エスキくんはウンチが止まらなくなってお休みです!」の大声で元気に朝の会でご報告の担任教師がこの世に生まれた時点で間違っていたのである。神がヒトにアナルを常設した時点で間違っていたのである。愛や優しさをどれだけ欲しても、そこがデモンズソウル腐れ谷の様な劣悪な環境では望み薄なのはちょっと考えてみれば分かる事であった。


人ひとりが出来る事には限度がある。
いくら私がカラオケで斉藤和義を歌っても、その声はどこにも届く事は無く、私が見ていない所全部で愛と優しさは生まれる。
私の見ていない所全部で私の知らない人間が強くなっていく。
私の見ていない所全部で小学校の同級生は月30万稼ぎボーナスを3,5貰い3歳の子供と水族館へ行く。
なんなら私がカラオケで歌う横でソファに座ってる友達も携帯を必ず私の番で弄るので、2m圏内の人間にも私の声は届いていない。私の光の後ろ側に忍び寄るのは毎月27日にやってくる奨学金返済日であり、サイコロで1の目で止まったマスは「就職訓練学校に入校する 1年休み」であった。ふりだしよりもタチが悪い。「貴方らしいわね」などと笑う女がいれば、是非私の前に現れてほしい。マジでブッ飛ばしてやるからよ。