好きな小説について



好きな小説は、好きな映画は、好きな音楽はと聞かれる機会はそんなに多い訳では無いけれど、声帯を震わせ返答をする2秒前に毎回思うのは『「分かってないな」「気持ち悪いな」「死んでくれないかな」などとバカにされるのでは?』だ。


パッと思いつくだけだと、冲方丁の「マルドゥック・スクランブル」や、米澤穂信ボトルネック」「折れた竜骨」、伊藤計劃「ハーモニー」は大好きな小説だし、映画でいえば「ダークナイト」「グラン・トリノ」なんかは公開当日に映画館でも見たし(しかも映画館のバイトをしていた時に観たからタダだった)Blu-rayも買って何度も見た大好きな映画だけど『皆が見たことのあるヤツが好きなんだね』と鼻で笑われてしまう気がするし、邦画で一番好きな「大誘拐」も『マイナーな映画言って通振ろうとしやがってこのクズ』と思われそうだ。(小説は何がメジャーでマイナーなのかよく分からない。私にとって小説は全部どちらか側の物な気がする)



ではどうすればいいのか?ここは『回答の拒否』しか選択肢はきっと無い。
「映画は見ません」と否定される可能性を根っこから断絶し、ゼロにするのだ。…それはそれで『えっ!休みの日とか何してるんですか!?』と新たな否定が始まる予感がしなくも無い。
皆さん恥ずかしがらずに自分の趣味嗜好を確立させましょう。


「好きなもの」を挙げることが苦手だ。
「好き」があるのなら、当然そこに至るまでの過程がある訳で、その対象が人であれ物であれ、それを大っぴらにする、表明するのが苦手だ。


他人との話題が「他人の悪口」と「金がない話」と「体の何処何処が痛い」「眠い」くらいしか無い私にとっては『好きでない物』を公表するのは、注文があれば24時間いつでも受付OKデリバリーも可、しかも店舗から20km以内であれば30分以内に配達をお約束、もし時間内にお届けが出来なかったらピザ代金全額負担制度を表明、もしバイトが実はクモ男でビルの合間を縫うようにして飛んでいった結果が『時間オーバー』になっても全肯定、そして即トビー・マグワイアのバイトリーダー指名をできる程に(スパイダーマン2だ)抵抗が無いのに、それが「好意の表明」となると、一転してバイトが一斉にストライキでもしたのかと疑うレベルで抵抗感が押し寄せてくる。
そして私の脳内すき家ストライキを敢行したまま、営業再開の目処は付いていない。この店に一体何があったんだ、もうとっくに肉の日は終わっているんだぞ!トビーを見習えトビーを!!


「好きな素数は126499です」の張り紙が窓一面に貼られた脳内すき家のシャッターをガシャガシャやりながらそんな事を大声でいくら叫んでも、ここは日本で、トビーもおらず、店内は沈黙を保ったままだ。解決策はあるのか。


いくら時給を上げ、店員1人1人の負担を減らし、衛生環境の改善、休憩室の配備、交通費の全額負担、勤務シフトの融通を良くしても、「好きな物への否定」を多少聞いただけでアルバイト達はバックれ、営業再開は夢のまた夢となり、私は職を追われてしまう。私が一体何をした。


あらゆる責任を「環境」に求める事は容易く、そしてそれは自身へのストレスという名の負担を和らげてくれる効能が期待される。


だが、「人のせいにするな」とは多くの人間が両親や小学校の教師の説教時に聞かされたフレーズであるし、私の大好きなバンドBUMP OF CHICKENもそんな事を初期に歌っていた気がする。よく覚えてないけど。


ただBUMP OF CHICKENが初期に歌っていたのなら、それは大体が正しいし、初期のBUMP OF CHICKENこそが正義ともいえる。私はそれを模範にしなければならない。飛ぼうとしたって我々に羽なんか無いのだ。まだ初夏だが。


「私が好きな食べ物は麦とろご飯なんですけど、これには理由があって、私の父は母に一切家のお金を渡さない人で、家の食費や光熱費は、全て母の給料から出されていました。母の給料日は毎月25日で、大体その2,3日前になるとそれも底を尽きるのか、夕食には麦とろと醤油と白飯という組み合わせが多くなっていきました。そうやって1ヶ月の内の何日かを麦とろで過ごす様にして育った私は、『逆に麦とろを食べないとしっくり来ない』という逆麦とろ現象で味覚が一周回ったのか、それすらも楽しめる様になっていったのです。」


…コレはやっぱり黙っていよう。お通夜みたいな雰囲気がここにいても透けて見える。