ボロボロのクラウンを長年乗り回す絵に描いたような「ヤンキー上がりの田舎のオヤジ」だった父は

私が高校2年生の春、両親と妹と私の4人でギュウギュウ詰めの深夜バスに乗り、0泊2日の日帰り強行軍でディズニーランドに向かう道中、バス内で後部座席にいた大学生たちの馬鹿騒ぎで寝不足と乗り物酔いで体調を崩した私と妹が、群馬辺りで途中下車したのを最後に我が家の家族旅行は無くなった。その翌年の夏に父がパチンコで作った借金が原因で両親が離婚したからだ。


だから最後に行った家族旅行は、私が中学3年生の時に行った札幌だったと思う。初めての北海道、初めての飛行機でとても楽しい2泊3日になるはずだったのだが、丁度その時期に記録的な寒波が北海道全域にやってきて、日程の殆どで部屋に引きこもる事になってしまった。私が「テレビカードを使って何とか家族の目を盗んでエロチャンネルを見られないだろうか」と部屋で悶々としている合間に、いつの間にか札幌滞在も最終日の3日目となっていた。


なので私の札幌の思い出といえば、最終日に何とか弱まった寒波の中で出向いた「父がネットで調べた『隠れた名店的』なラーメン屋の壁一面に貼られたポルノ女優のヌードポスター」と「何の催し物も開かれていないけどとりあえず行ってみた札幌ドームで飲んだ300円のオロナミンC」くらいだった。


帰りの空港に向かうタクシー内で母は「だからちょっと値段は張っても札幌雪祭りの時に来ようって言ったのに…」と小言を言い続け、妹は札幌の本屋で買った月刊マーガレット2月号を読みふけり無言、私は早く自慰がしたかったので同じく無言だった。


妹が本屋でマーガレットを買う時、母が「荷物になるし向こうに着いてからでも帰るのに、お父さんと同じでアンタも人の話を聞かないのね」と父に聞こえる様に言っていたのが決定出になった様で、出発前は旅行雑誌やパンフレットを山ほど家に持ち込んで読み込んでいたあの時の父はどこへ行ってしまったのか、飛行機の中でも父は見るからに落ち込んでいた。今思い返しても嫌な光景だ。


それから数年後に前述のメジャーリーグ傘下3Aリーグの遠征の様な舞浜への旅行に出かける訳だが、この時もやはり旅行費をケチっての深夜バスだった訳で、この事をきっかけに私の反抗期最盛期は到来したのだと今思う。それ以来長期連休を迎える度に父から「どこか行きたい所ないか?」と聞かれても「疲れるし…」と断り続けていたし。


ただ今思い返すと、それまで父は父なりに私と妹を楽しませようと色々思い出作りをしていてくれた様に思う。
楽しみといえばパチンコかBUBUKAの購入しかなく、歳も40になっても髪を茶髪に染め、ボロボロのクラウンを長年乗り回す絵に描いたような「ヤンキー上がりの田舎のオヤジ」だった父は、私と妹が長期連休に入る度に旅行を計画し、父の運転するクラウンで遠出していた。


旅行といっても、大抵は父の勤める会社保有の山奥にあった旅館に1泊するばかりであったし、旅先では「部屋でテレビ」か「風呂」くらいしかやる事は無かったが、小さい頃から外出より部屋でゲームしていた方が好きで、遠出する度に嫌な顔をしていた私を懲りずに連れ出し、不器用にも父は家族旅行を何とか成立させようとしていた。今大人になって思うのは、何故もう少し父の旅行に協力的になれなかったのだろう、ということだ。


たまの休日に朝早く同僚たちとパチンコ屋に出かけ、夜遅くに泥酔して帰って来るのが何よりの楽しみであった父が、会話の一切ない子供との旅行を心から楽しんでいたとは、勿論思えない。
実際、私が高校生になって旅行の参加を断る様になってからは、よりパチンコに熱中する様になり、休日に家にいる事自体が殆ど無くなっていた。


それもあって、今までの旅行の1回や2回でも「ちゃんとした子どもでいてやれなかったのだろうか」と今思う。
「旅行を計画して『家族サービスに徹する自分』が好きなだけではないのか」「出来るだけ旅行代金をケチってお手軽に父親面したいだけじゃないのか」と当時も今も思うし思ったし、実際父本人もそういう所はあったかもしれない。しかし私は父を当時「山奥で周りに何もないこの旅館によく来るけど、本当にここが好きなんだな…」と思っていたが、それが全てな訳は無かったのだ。


でも、それと父が借金を作った事とは別の事だから別に「心から悔やんでいる」という訳では全く無い。
いつかその時が来るとするなら、私が父の様な境遇に陥った時だけだ。
私が誰かをロクに好きになった事も無いのに、数年ぶりに会った友達に恋人がいるか聞かれた時に「大学の時に付き合いだしたけど、こっちには結婚するつもりはないしこのままズルズル付き合っていい歳にさせるのも可哀想だから別れた」というクソみたいな嘘を前日にちゃんと考えて居酒屋に入る私には、そうなる予定も無いけれど。