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考えれば考えるほど学校の保健体育の授業に「愛情」や「性技」の科目が無い事が理解できない

考えれば考えるほど学校の保健体育の授業に「愛情」や「性技」の科目が無い事が理解できない。
異性の身体を知らずに大人になった故に、社会という構造から弾き出される事になった肉体的、精神的浮浪者の人間が吐いて捨てるほどいるのにも関わらず、である。



人が社会から弾き出されるに至る要因を一つ挙げるとするならば「誰からも嫌われれたくない気持ち」というのがある。
【誰かのたった一人の大切な人】になる事を、恰も人生の目的として我々人間に強要するのが社会という物である。


しかし「何かを愛する」「何かを得る」ということは、同時に「何かを失う事」「何かを傷付ける事」を示唆している。(友達をインターネットでネタにし馬鹿にし過ぎたせいで結婚式に呼ばれなくなったりが例として挙げられる)


コレは、例えばこれまでの人生で起きた出来事を文章化しまとめたとしても、田舎の市民会館のパンフレット程度の薄さの小冊子にしかならないであろう私の様な大卒職歴なしにも、充分理解できる事柄だ。



神が「光あれ」と唱えた事で、光と闇が生まれたのと同じ様に、ズル剥けと包茎が生まれたのと同じ様に、太川陽介蛭子能収が生まれたのと同じ様に、高卒子持ちと大卒無職が生まれたのと同じ様にして、あらゆる事柄には、それと相反する想いが、コインの表裏の様に同時に存在している。
何かを受け入れれば受け入れるほど、敬えば敬うほど、同時に失われる物もあるという事を理解できなければ、この社会という思念のゴミ渦で生きる事は困難だ。


そして心を鈍らせ、他人の感情の機微を無視する事で愛情という物の本質を理解する事が出来なければこの世から取り残され
「まだ童貞なの?」
「最後に恋愛したのはいつ?」
「結婚は考えてる?」
「いい年してまだ独身?結婚してこそ社会人として一人前になれるんだぞ?」
「えっ包茎?…うーん、幼少期に【おちんちんムキムキ体操】は近所の独り身のオジサンに指導してもらえた?」
などという、凶器の様な言葉の数々を挨拶代わりに浴びせられる事を覚悟しなければ(おちんちんムキムキ体操は想像上の存在でありフィクションの体操です)ならなくなるのも、我々の生きる社会である。



では、愛という物の本質を知ってこそ「社会人」として受け入れてもらえるのがこの世ならば、社会というクソ山に放り出される前の学生の我々に、一声あってもよかったのではないだろうか?
英語や数学を教える前に、もっと人として大事な事を教えるべきではなかったのだろうか?


学校という場での愛情、性技の授業で、これまで「自分とよく似た不思議な肉塊」でしか無かった異性という存在の正体を暴き、理解し、自分の物にする事さえ出来ていれば、私にとってこの世の中はこんなにも生きにくい物では無かったはずである。畏怖の対象となる物に愛情を注ぐ事は難しいのだ。



『義務教育』とは、社会に出ても恥ずかしくない人間に心と体を育てていく準備期間であったはずである。こういった教育現場の怠慢こそが、童貞を生み、干物女を生み、アトリエかぐやでしか女を知らない成人男性を生み出す事に繋がっている。全ての人間が異性の身体を【ある程度知っている】という同じスタートラインに立って、人生を始めるべきだ。


…けど、ちょっと待てよ?
書いていて思い出したけど、私が中学生だった頃、保健体育の時間に我々男子が3頭身のオバさん養護教諭から「おちんちんはたまには皮を剥いて白いカスみたいなのを削ぎ落としましょうね」と言われている時は(もしかしてコレがおちんちんムキムキ体操の予兆…?)女子は同じ教室にはおらず、たしか視聴覚室に集まっていた様な記憶がある。


そしてそれから数年後、20歳の時に同窓会で久々に中学の同級生に会ってみると、クラスにいた女子の約半数が「水商売で生計を立てている」か「子どもを堕した経験がある」のどちらかに該当していてメチャクチャ引いた事と照らし合わせて考えてみると、クラスの中出しエリートたちが(この場合は【中出されエリート】なのか?)多感な学生時代に、愛や性のについての知識が全く無かったとは考えにくい。


まさか秘密裏に教育委員会が我々のクラスの女子を使ってカリキュラムの運用テストを…?
そういえば我々が3頭身のオバさん養護教諭から「この中でもうおちんちんからおけ毛が生えたって人~?」と挙手を促している合間、女子から人気があった男性教諭の担任、西野先生は教室にはいなかった…?


.........ズルい!!