例えば私がここで1500文字のブログを書いたとして

例えば私がここで1500文字のブログを書いたとして一切誰の目にも触れないという事があれば、それは「無い」と同じである。


観測者の存在があるからこそ「私」がそこにあるならば、自分自身の存在価値というのは、他者に全て委ねられているといっても過言では無い。
他者がいるから私がいるのであり、私がいるから他者はいる。人は見たい物だけ見て生きていく物であるが、知らず知らずにしてどこかの誰かの、どこかの誰かが作った何かの「存在の証明」という立場を、きっといつの間にか担っているのだろう。


例えば、どこか田舎町の小汚い寂れた中華料理店の店主も、家族とどこか温泉にでも出掛けられる様な暇も無く、かといって大して儲けも出ない、この同じような毎日の繰り返しに辟易となっても、長年通ってくれる名も知らぬお客たちの、美味そうに作った飯を食ってくれるその顔に、救いを見た可能性もきっとある。


例えば、低所得者には【あちらに心は無い物と捉えてOK!】と信じ込まれているコンビニ店員も、半ばいない物として邪険に扱われる毎日の中で、同居するニートの孫に頼まれたジャンプを買いにやってきた襟元ダルダル乳首丸見えシャツを着た80代死にかけおばあちゃんの「いつもありがとうね」の言葉に、明日を生きる理由を見つけたりする可能性もある。


例えば、「おちんちん ごしごし」で検索、Googleで上から347番目に検出されたブログを覗いた貴方がもたらした【閲覧者数 1】が見ず知らずのブログ管理者の、明日の生きる糧になった可能性だってある。(「おちんちん ごしごし」で検索されたブログを覗く貴方の存在証明と生きる価値は果たしてそこにあるのか、という問題は別だ。)



同じ様にして、他者が閲覧するからこのブログは存在を許され、他者がフォローするから私のアカウントはインターネット上に存在を許され、他人が食うから飲食店はそこにあり続け、他者が読み、聞き、見るから、本や、音楽や、映画は存在を許される。
「認識」たったそれだけの無意識下にある行為が、誰かを、そして何かを救う結果に繋がるのであれば「見る」「知る」「読む」「聞く」「考える」といった単純な行為にも、意味が見出せる様な気になれるのは気のせいか。


しかし、ここに一つ問題がある。
皆さんご存知の通り、人間には多くの不備がある。
「歯茎の変な所から歯が生えてくる」
「陰毛が皮に巻き込まれて痛みを感じる」
「妹の方が先に就職を決める」
昭和シェル石油で【ポンタポイント4倍セール実施中!8月31日まで!】の旗に惹かれてハイオクガソリンを1ヶ月ほど車に給油し続けたが、単純に考えれば微々たるポンタポイントをチャージしていくより、レギュラーガソリンを入れ続けていた方が価格的にはずっとお得だった事に今やっと気付く」
などが代表的な事例として挙げられるだろうが、もう一つそこに事例を加えるとするならば、それは「無意識という機能が人間に備わっている」という事に他ならない。認識した対象の持つ「意思」というのを無視してしまう所に問題はあるのだ。


この世に存在する全ての創作物が【未来永劫に渡り多くの人間に知れ渡って欲しい】という意思の下には無い様に、「存在の証明なんかしてほしくなかった」という案件というのも、腐る程挙げられてしまう。(アレとか、アレとか、アレだ。)
人間の思い出というのもデータベース化、可視化、一覧として大衆に提示出来る様になる未来が、私は待ち遠しい。


「私が自動車学校で相乗りになった娘の運転の問題点を授業で挙げていったら、次の時間に教官にメチャメチャ褒められた」は皆にもっと見て欲しいし知って欲しいから存在証明タグをONにし、人々の無意識下へ配給される様に設定する。
「小学1年生だった頃に給食当番で始めてお味噌汁を配ったらクラスの足の速い連中に【具が全く入ってない】と詰め寄られてお味噌汁を残飯入れにバッシャー!!廃棄事件」は大泣きした私の姿を覚えてるクラスメイトもいそうだから存在証明タグをOFF、皆の「なんとなく」から徹底的に排除する…。(なんだか書いてる内に好きだった娘が「無意識下」から消された物語でも私に始まる様な気になってきた)