腕くらいあるパプリカを頭にグチャとやるのがきっと正しい母親像だ

人には得意不得意という物がある。


20代も半ばに差し掛かって思う事は「大人になった今でも苦手なら、この先ずっと苦手なんだろうな」という諦めだ。


例えば、ピーマン。


子どもなら「ピーマン嫌い!」と食卓で叫んでも、お母さんが「あら、じゃあ我が子の為に今度は肉詰めピーマンでも作ってみようかしら!」「好き嫌いを無くさなきゃ!」「あのサイズくらいの野菜がおしりに入らない様じゃ後々苦労するわよ!」
と奮闘してくれるのが正しい母親像なのかもしれないが(3つ目のはウソです)20代30代になってからの「ピーマン嫌い!」は、もう只々痛々しい。


そんな痛々しい子どもには「グダグダ言ってないでとっとと食え!」と腕くらいあるパプリカを頭にグチャとやるのが、きっと正しい母親像だ。
子どもの頃からの「苦い」「不味い」の積み重ねを、何年も何年も払拭できずに溜め込んでの20代での「ピーマン嫌い!」なのだから、もうそうなったら手遅れなのだろう。ピーマンだけに限らないけど。




「もうこの先の人生でリカバリーは無理かも」と、何十年先の自分がチラッと見えてしまう事も、また悲しい。
先日、事務職の面接に行ってきたのだが、結果はアワワアワワと言ったり「それ以上聞いてない事言うと変な人だとこっちも思うからその辺で」と言われたりしてる内に「本日は以上になります」で、もちろん不採用。
大学生だった頃の就活で不採用自体には慣れっこだから、別にそこに関してはもうどうとも思わないけど(でもここで笑ったヤツは殺す)「何度やってもどんな時でも手応えある面接だった事がない」に関してはマジ凹みだ。


人には得意不得意がある物だし、確かに私には他にも苦手な事はある。
「手先が不器用」
「物覚えが悪い」
「口が軽い」
「おしりに野菜どころか人差し指も入れられない」
挙げていけばキリが無いほどだ。
だが、この「面接が苦手」ほど人生のレベルをグンと何段階も上げている不得意事項があるだろうか。


手先が不器用だって、きっと結婚はできる。
物覚えが悪くても、メモを取るなどの習慣を付ければ、いくらかのリカバリーはできる。
「ウチは学歴が無くても資格が無くても前科があっても構わないけど、おしりに人差し指が入らない人間はいらないよ!」と人事部が説明会で発表する会社でないのなら、おしりに人差し指が入らなくても就職はできる。


だが、面接はどうだ。
あらゆる面でこの「面接苦手」が足を引っ張っている気がする。


面接が苦手だと、例えば初対面の女性とお話する機会になっても、「私の強みは笑顔が素敵なところです(ニコリ」みたいなド下手自己PR2分間で、歯の黄色さのみをPRする事になる恐れもあるから結婚も出来ないし、面接が苦手だとおしりに指が入らなくても入れる会社にも、面接で落とされるから就職は出来ないし。


諸悪の根源、この世における「不幸」と呼ばれる物の正体はきっと「面接苦手」なのだろう。この「面接苦手」を何とかしない限り、世界から紛争も貧困も無くならないのだ。そうだ、私が面接がずっと苦手なのは、世界レベルで深刻になっている問題と同義なのだ。


人には得意不得意があるのだから、得意な物を不得意な物があるシチュエーションに持ち込んで、プラマイゼロにするのはどうだろう。
私にとっての「得意」は「自分より弱そうな人間がいるととっても落ち着ける」だ。面接の時に、隣のパイプ椅子に足を組んでTwitterをするデブがいるだけでかなり落ち着ける。パキスタンとかウクライナとかにもこのパイプ椅子デブを持ち込んだらいい。


民族同士が一触即発の場面で、合間にパイプ椅子デブ。
キエフでデモ部隊と治安部隊の催涙ガスの投げ合いの場に、派遣パイプ椅子デブ。
コレできっと何とかなる。ならない。以上愚痴でした。