私に「学校に来る意味」をもたらしてくれたのがパンツだ

小学生の自分に何か一つだけ伝える事ができたとしたら、一体何を告げるだろうか。


勉強のこと、恋愛のこと、友達のこと、家族のこと、将来のこと、夢のこと。
出来れば知らずに大人になりたかった事実や事柄は掃いて捨てるほどあったけれど、実際にそれらを掃いて捨てると社会で生きる事が出来なくなってしまう。
人として、大人としてどうあるのが理想なのか。いつの間にか私の身体にはそれが「常識」としてしっかり刻み込まれている。
『常識の中で生きる事が義務にならない内に、伝えてほしかったこと、教えてほしかったことはいっぱいあった』というのは、今現時点で思い描いた将来を過ごす事が出来ていない事に対しての「責任のなすり付け」になってしまうのだろうか?


ただ、それが叶ったとして、子ども時代の私がそれを素直に受け入れるかどうかは疑問だ。


例えば、じゃあ「勉強はしっかりしておけ」を伝えたとして、小学生の私は今とは違ってそこそこ勉強が出来た方だったし、当時はおばあちゃんに「孫はとんでもなく可愛いし頭もいい子どもだからすぐ誘拐されちゃう」と一人で5分外に買い物に行っただけで警察に電話されそうになる程の過保護で育ったから、すんなり「お前は本当はとんでもないバカなんだ。処理に困って押し入れに隠してた山の様なオナティッシュも見つかるし、おばあちゃんの財布から金も盗むし」を素直に聞き入れてくれるとは思えない。


では、もっとピンポイントに、子どものプライドを傷付けない様な、それでいて人生において重要な案件を提示する必要がある。


パンツだ。


小学生の頃の私の学校での楽しみといえば、主に2つあった。


1つ目は、休み時間に友達と実施したバイオハザードごっこ。これは大抵ショットガンを取ると天井が降りてくるトラップの再現をやってると掃除の時間がやってきて終わった。


2つ目は、クラス全員分の名前と名簿番号が記載されたマグネットを持ち出し、名簿番号の1ケタ目をトランプに見たてて使った大貧民。(私の学校ではトランプや花札の使用は禁止されていた)
こちらはいい数字が来ると『コレで勝てる!』と遊戯王のカードゲームみたいにして床にマグネットを叩き付けてたら、クラスで一番虐められてた色黒の岡田さんのマグネットが、本当にたまたま2つに千切れてストーブの下に入ってしまい取り出せなくなって、担任の先生に見つかり中止になった。


この2つに加えて小学4年生だった頃の2学期に限り、私に「学校に来る意味」をもたらしてくれたのがパンツだ。
この時期、担任の先生のアイデアで、教室の席位置が黒板に対して平行に机を並べて行く従来の配置ではなく、『コ』の形に机を並べ、黒板を全員が包囲した会議室の様な配置にしていた。平行に机を並べる従来の配置とこの『コ』の字型の配置の大きな違いといえば、勿論「誰かと向かい合わせになる」という事だ。そして当時の私の思い出といえばパンツ。


…ここまで書けばもうお分かりかと思うが、そう、算数の時間だろうが、理科の時間だろうが、晴れの日だろうが、雨の日だろうが、早野くんが皆に見せびらかす為に家から持ってきたキラッキラのストライク(ポケモンカードだ)をその日の内に学校で盗まれて教室中の机と椅子をひっくり返して怒り狂った日だろうが、私の席からは女子のパンツは丸見えだったのだ。しかもこの配置は黒板から見て左側は女子、右側は男子と完全に男女で区分されていたから、ほぼ全員の女子のパンツが見えていた。我々男子の中からこのパンツ博覧会が毎時間毎時間行われている事をお上に密告する裏切り者が出ない限り、この聖域は永遠に存在し続ける事になっていたのだ。



そうだ、全員のパンツが見えたのだ。勉強も運動も出来て憧れの存在だった飯橋さんが、体育の鉄棒で垢だらけになった掌を笑いながら私に見せてきた次の授業では、飯橋さんの青いパンツは丸見えだった。
席替えで私と向かい合わせの席になった事で大泣きしたブスの岡田さんのパンツも、大泣きしながら丸見えだった。


友達にバカにされた日、テストの点数が悪くて親に怒られた日、クラスで一大ブームを巻き起こしたバトルエンピツを使った賭けバトエンで(当時はポケモンのとドラクエのとが混在していたから『ドラクエ6のハッサン vs ピジョンオーキド博士』とかメチャクチャな対戦が実現していた)エースだったラプラスユンゲラーをクラスの山口くんに巻き上げられた日。小学生は小学生なりに辛い思いをした日は沢山あった。


でも4年生の2学期においては、私はずっと無敵だった。だって好きな娘のパンツも、ブスだった娘のパンツも、いつも輪ゴムを飛ばして早野くんを追いかけ回してたアマゾネスみたいな娘のパンツも、次の日の1時間目からは見放題だったから。気分は王様だ。きっと金正日もこんな気持ちでいつも過ごしていたんだろうなと当時思った。


パンツさえ見る事が出来れば、何でもできる気がした。
進研ゼミも頑張れた。
徒競走も一生懸命頑張った。
周りに流されて始めた空手も頑張れた。
苦手だった朝も、いつもより5分早く登校出来るようになった。



小学生の自分に、何か一つだけ伝える事が出来るのなら、一体何を告げるか。それは私の場合は「子どもの内に沢山パンツを見ておけ」だ。
この『コ』の席順も、だんだんと女子のパンツが丸見えになっている事に異議を唱え始める脳髄の腐った媚び売り男子が増えていった。
そして遂に3学期に入ると完全廃止、それまで黙ってパンツを凝視してた私ほか数名の男子は槍玉に挙げられ、「スケベ」「ちんちん膨らみ」などの呼称で数ヶ月ほど呼ばれる事になったから、やはりあのパンツと共に過ごした2学期の日々は、私にとってはかけがえの無い物であった。


で、今。技術はとんでもなく発展して、ポケットにいつも入れてる携帯端末でちょいとしたエロ単語を入力するだけで、パンチラどころでは無い映像を一瞬で表示出来る様になった。
だけどあの2学期の日々を上回る興奮をそれで毎日の様に手に入れられているのかと聞かれると、首を捻らざるを得ない。
不思議な物で「いつでもどこでも全部見れます!」よりも、もっともっと限定的なシチュエーションだった小4の頃のスケベ体験の方が、ずっと脳裏に焼き付いている。


今日は「今の私が20年前の子どもだった私に何を告げたいか」で書き出した訳だけど、逆に「20年後の私に何を告げたいか」で考えてみると、今のテンションなら「なんかこう、脳髄のいい所を弄って、『精通しかける前の自身の不安定な性欲』みたいなヤツを再現できる技術とか、その中で『殆ど毎日過ごしてる小学校にあったマンネリの中に、ふと現れる幼稚園時代からの知り合いたちのパンチラの新鮮さ』みたいなの、開発されてませんかね?アレ本当に興奮したんですよね~」だな。
何が『だな』だよ。