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バイト先で半年前に発売された3DSドラクエ7の中古が1700円で売っていた

バイト先で半年前に発売された3DSドラクエ7の中古が1700円で売っていた。
私が小学5年生か6年生だった頃に数回の発売日延期を経て、ようやく店頭に並んだPS版ドラクエ7は半年経っても中古ゲームショップではまだまだ高値で売り場に出されていた様な記憶があるから、その頃と比べれば随分手に入りやすくなったものだ。発売日前の予約すら困難だった様な記憶もある。


当時、私の友達で唯一このPS版ドラクエ7を発売日に手に入れたのは、実家が八百屋の早野くんだけだった。
すぐにでも彼の家に飛び込んでドラクエを触らせて欲しかったのだが、早野くんはそこからドラクエに熱中したいが為の1週間に渡る精神的鎖国を実施したので、発売日だった8月の夏休み終わりに家に電話しても取り合ってくれず、登校日になっても授業が終われば誰とも喋らず目を合わせず、道端に捨てられた子犬がクーンクーンと鳴いてても子犬が入っていたダンボールを徒歩時の足の回転に巻き込みながら帰宅の途に付いていたから、私に限らず、私の周りの同じくして買いそびれた or 金欠で買えなかった友達たちのドラクエ7初体験も、少し遅かった。ドラクエに飢えたハイエナだった我々は、2学期始まっての数日で「早野の家に行けばあるし買わないでいいだろ」という当人の知らない所でのドラクエシェアを決定事項としていた。あの時はごめんなさい早野くん。


ドラクエシリーズは子供の頃の私にとっては「憧れ」の存在だった。
私が幼少期を過ごした実家はとんでもなく田舎で、どれくらい田舎だったかと言うと、外を歩けば近所の奥様方の井戸端会議で「さっき外を歩いている子がいたわよ~怖いわね~コレだから最近の子は…」と風評被害に逢うレベルで田舎だった。だから周りに娯楽も殆ど無く、子供が集まって遊ぶのであれば「家で皆でゲーム」か「外で野球」くらいしか選択肢が無かった。


そうなると必然的に、少ないお小遣いで買えるゲームは「皆で遊べるゲーム」に絞られてくる。「1人で黙々と遊ぶタイプのゲーム」の筆頭であったRPGを発売日に買える子供は、私には「裕福な子供」に見えたし、実際そうだった。
そういう「皆で集まって楽しめるモノ」こそがゲームであると信じ込んでいた私に、早野君から借りたドラクエ7は「想像する怖さ」を教えてくれた。もう死体になった主人を世話し続ける機械の話とか、住人全員が石化した街の話とか、イチイチ怖くて不気味なエピソードがドラクエ7にはとにかく多かったのだ。
生粋の怖がりで、ホラーゲームやホラー映画をとにかく回避してここまで生きてきた私にとっては、小学生の頃にプレイしたドラクエ7は恐怖体験ランキングでも結構上位に位置する。(因みに恐怖体験ランキング3位は、これまた小学生だった頃。右足の筋が切れて装着したギプスを取り外す時に行った整形外科で、お医者さんがチェンソーの小型版みたいな奴で、説明も無しにいきなりギプスにガガガガっと切りかかりに来た時だ。その週は、ドラマ「銀狼怪奇ファイル」の首なしライダー回を見たばっかりだったので、私の右足が校舎横の木に引っかかってるのを早野くんが翌朝教室から発見する所まで想像した。1位と2位は普通に引くほど怖かったので書かない。)


ドラクエに触れる前から、色々な媒体で「圧倒される世界観」「魅力的なキャラクター」「劇的な楽曲たち」といった所謂ドラクエのイメージ的な物はよく発信されていたが、「怖い要素」みたいな物はその中には無かったから、余計にそう感じた部分もあった。
冒険には付き物の『ハラハラドキドキ』をより生々しくエッセンスとしてストーリーに加えてくるゲームは、私がそれまで知らなかった物であったし、私の知っている「怖さ」というのは、父が深夜に母に隠れてリビングでやっているのを事故的に見てしまった「バイオハザード」や「サイレントヒル」の様な視覚的にも聴覚的にも恐怖表現のある、「直接的な怖さ」だけだったから、テキスト表現と、ドット絵のキャラクターの最小限の動きだけで語られる「想像力に頼る部分」を残した恐ろしさの表現は、真綿で首を絞められていく様な、そんな感覚に近かった。
日常のふとした時に、昨日やった後味の悪いイベントが頭を過った事もあった。登場人物たちの「その後」や「ifの展開」を自分なりに想像すれば想像するほど、怖さ、やるせなさに行き当たるのは、何だか画面を越えて、私の実生活にもドラクエの世界がだんだん侵食してくる様に思えた。
ただ、私がドラクエシリーズが好きなのはそういった部分を含めての事だ。
当時は「怖いけど進まなきゃ」「怖いけど止めちゃダメだ」と何とかクリアしたのも、大人になって今では、作品の面白さや魅力に完全にやられてしまってたんだな、と理解できる。子供の私は、そんな矛盾した行動をゲームで取る事自体が新鮮に思えていた。


ドラクエは、一体今の私にとってはどういう位置付けにあるのか。それは「自分が今まで無自覚だった感性のスイッチをONにしてくれた作品だった」という事だ。表現全てを画面の中で説明するのではなく、自分の脳内でそれを自分にとっての「完全な物」に作り変えていく楽しさ。「想像力」との楽しい付き合い方を一番最初に学んだ媒体が、私にとってのドラクエであったと思う。
想像力に頼りすぎて本筋の物語と区別が付かなくなる事もあったが、友達とドラクエの思い出を語る時に、そこのギャップが個々人であったりする事もまた面白い。
一度私が「早野から借りたドラクエ7で、ザッザッザッって階段を登る効果音が永遠と続く長い階段ってあったよな?アレってどういう演出だったんだろ」と友達に聞くと「それ、単なるディスクの動作不良なんじゃないの?」と指摘された時は流石にショックだったから、もう一度プレイし直してみるのもアリかな、と今は思う。今度はちゃんと自分で金を出して、やる。