友達たちはカッコいいマウンテンバイクやら青い光で夜道を照らすライト付きの自転車なんかに乗ってるのに

自転車にいい思い出が無い。思い返せば自転車に全く乗らなくなった。子どもの頃の主な移動手段といえば自転車だったが、「MT免許が取れる人間はハンドル操作とクラッチ操作の2つの物事を同時に思考することの出来るサイコパス野郎」と言いながら習得したAT限定免許のおかげで車を運転出来る様になってから、多分1度も乗ってないと思う。


私は運動神経が良い方ではなくて、近所にいた同級生たちよりも自転車から補助輪が取れたのが相当遅かった。学校の規則か何かで「補助輪付きの自転車では公道に出てはいけません」みたいな事を言われていたから、自転車から補助輪を外せる様になるまでは、一生懸命友達が乗る自転車に駆け足で追いつけ追い越せと走り回っていたが、子どもながらに当時から「私はなんて情けないんだ」と、惨めな気持ちになっていたのを覚えている。友達たちはカッコいいマウンテンバイクやら青い光で夜道を照らすライト付きの自転車なんかに乗ってるのに、私だけ靴流通センターで買った紫のズック靴で、メガネをおでこから唇あたりまで上下に揺らしながら何kmも全力疾走だ。ダサすぎる。


自転車に乗れる様になったのは小学4年生の夏休みだった。補助輪をお祖父ちゃんに頼んで取ってもらい、もう後戻りは出来ない緊張感と高揚感。そして足に力を込め、ペダルを少しずつ、少しずつ回転させる。「いざ、果てしない航海へ!」と大海原に船を出す様な気持ちで公道デビューと相成った訳だったが、そう簡単にクラスの足の速い連中を追い越せる様になれる程、この小学生自転車業界、甘くはなかった。


実家周りはクソ田舎なので「角度にして75度はあろうかという程の急な坂だらけ&スタイルはスラッとしててモデル体型なのに顔と性格はクソブスのバレーボール部だった吉田さんを2人半ほど横に並べればあっという間に通行止めが完成する」レベルの急勾配で狭い公道だらけだったから、上りは勿論辛く、下りもスピードを出してたら向かいから8tトラックご登場で正面衝突寸前、何て事も1度や2度では無かった。ランニング時には全く苦に思わなかった道のはずなのに、一度自転車に乗れば登り坂は殆ど直角の様に見えたし、どの下り坂も角から【…………………ハイ、このタイミングでした!でドーーーーン!!!グッシャアアアアアアア】と、トラックという名の『死』が、ココだ!とスピードを上げたその瞬間を狙ってやってくる様な気がずっとしていた。


そんなんだったから、友達から誘われる「○○の家行こうぜ!」とか、そういう遊びのお誘いがやっぱり死ぬほど嫌だった。いっつも皆より遅れるし、いっつも皆私が坂を登り終わるのをイライラした顔で待っている。何故か私以外の皆は直角の坂を平気で登っていく。何故か私以外の皆は下り坂を恐怖心など産まれて一度も感じた事が無いように、全速力で下って行く。


自転車に始めて乗った時に感じた「世界がグッと広がった感」も、完全なウソだったと速い段階で知ってしまったのも問題だった。今までは精々【家⇄学校⇄友達の家】くらいが世界の全てだったのが、自転車を手に入れる事によって、それが何十キロも広がった様に思えたし、いつも通る道から少しでも奥に行けば、そこはもう幼少期の私にとっては「宇宙」だった。


で、実際自転車に乗って遠出し、知らない道をドンドン進んでみると…当然「宇宙」なんかあるはずも無い。実際あるのは、ちょっと坂が緩くなって、吉田さん6人分くらいには広がった道が延々と続くだけ。どれだけ進んでも、私が思い描いていた様な宇宙も、出逢いも、子どもにしか見えないオモチャ屋とかそんなメルヘンチックなのも、全く見つからない。辛うじて見つけたのは、あり得ない程に異臭を発してる養豚場らしき小屋くらい。


「どこまでも自転車を漕いでも漕いでも、この先にはもうずっとずっと何も無いのでは…」と怖くなってしまったのと、後日クラスの皆に「この前自転車で養豚場を見つけたよ」と自慢げに語ってみると「先々月学校で見学に行ったじゃん」と言われて「人類未開の地なんて無いんだ…」とダブルで愕然とさせられてしまったのがデカかった様に思う。で、その話をしてると「あの時そういえば豚の臭さに成田さんが吐いた」「ゲロ臭かった」「成田さんはすぐ吐く」と、女子たちが何やら視界の隅で盛り上がっていたけど、この話は別に今言わなくてもよかった。因みに成田さんは小学6年生くらいまで私が行ってたのと同じ床屋さんにお母さんに連れられて、同じ様な髪型にずっとさせられていた女の子だったんですけど、この話も別にしなくてもよかった。