遊戯王カードを世界で最初に始めたのは私だという確固たる自信がある

遊戯王カードを世界で最初に始めたのは私だという確固たる自信がある。何も「発売元のKONAMIにお父さんが働いているからサンプルを貰った」とか「冬に学校のグラウンドで友達の熊倉くんと『食えるか食えないか、ギリギリのラインのきったない氷柱を見つけて相手に何本食わせられるか』で数時間遊んでいたら8tトラックがやってきて『各地の子ども達に遊戯王カードを配ってどんな反応をするかデータを取っているんだ』とスーツを着た黒人が笑いながらコンテナいっぱいの遊戯王カードをグラウンドにばら撒いているのを見た」とか、そういう劇的な話では全然無くて、答えは「発売される前に自分で作ってたから」。

(「KONAMIにお父さんが働いてて…」の下りは、任天堂ゲームキューブ発売日まであと1週間くらいの時に、授業参観でお父さんが紫のジャンパーを着てきた辺からよく腹パンをされる様になった山崎くんを、日頃からよく虐めていた漆原くんが皆から構って欲しくて「ウチのお父さん任天堂で働いてるから家にゲームキューブあるよ!」と言ったはいいものの、皆から言い寄られているとだんだん「遊びすぎてスティックが折れたからちょっと見せられない」→「お母さんが掃除機でぶつけてスイッチが点かなくなった」→「試作品だからコントローラーの差し込み口が5つあったので任天堂に返した」→「そんな物はない」→「なんで俺を虐めるんだ!」→「山崎くんちょっと来て~」にトーンダウンしていったのを書いていたら思い出しましたが、詳細はまた今度にしましょう。)(因みに漆原くんはデブです。)

遊戯王の原作5巻に載っていたルールと、物語内で行われたカードバトルの雰囲気を元に、厚紙を切って自作のモンスターカードを山ほど作っていた。絵は苦手だったからモンスターの名前とレベル、攻撃力と防御力だけを小さい自作カードに書き込んだだけの簡素な物ではあったが、「世界で自分しか実際にこの遊びをしてる奴はいない」という確信が私のテンションを上げに上げた。原作内でも人気だった「ブラックマジシャン」「炎の剣士」辺りは勿論、自分だけのオリジナルカードも沢山作っていた。

しかし、最初の方はちゃんと「ショットガン・カウボーイ」とか「いかづちの槍使い」とか、それなりに名前も考えて作っていたのだが、だんだん「早くある程度カードを作ってゲームを始めたい」という思いが強くなっていって、オリジナルカード20枚目30枚目になると、もう完全に飽きた。最後の方は「まあつよいおとこのこ
(強いおとこのこというモンスターは既に作っていた)」とか「クソだめ(攻撃力2700で自作カードの中では2番目に攻撃力が高い)」とか「仁志敏久(特に特徴は無かった)」とかをモンスターカードとして作っていたから、今考えても相当酷い。クソだめが暗黒騎士ガイアに圧勝し、仁志敏久が炎の剣士に火達磨にされるのを頭の中でイメージして遊んでたから、もうビジュアル面のバランスなんて何処にも無かった。

そんな風に遊び始めてから3ヶ月くらい経った辺りで、本物の遊戯王カードが発売された。ある意味「予習」が完璧だった私は、周りの友達が金に物をいわせて強いカードを持ち始めるまではどんな相手にも圧勝できていたから、だんだん自作カードの事を思い出す事も少なくなっていったのだが、友達と対戦中にふと「ここでクソだめが引ければな」とありもしないカードをドローする事を願ったり、「もしかしたら次のブースターパックでいかづちの槍使いなら収録されるんじゃないのか?攻守のバランスも良いし」なんて想像する事も1度や2度では無かった。その直後くらいから友達みんなに遊戯王カードを盗まれまくる事を考えると、私にとって一番楽しいカード遊びが出来ていた時期はその時だけだったのかもしれない。それから何度もパックを剥いても剥いてもクソだめもいかづちの槍使いもショットガンカウボーイも出てくる事は無かった。

いや、勿論当然なのだが、「もしかしたら」という気持ちが私に何年もあったのは今でも不思議だ。カードが盗まれる悲しさと対戦に負ける様になってきた悔しさとで、どうかしていたのだと思う。因みに仁志がブースターパックから出てくるのを想像した事は殆どなかった。特に特徴もないし。