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やはり私は『大人になる為の条件』を1つもクリアできていない

「年相応」という言葉もある様に、例えば成人女性相手に「私の好きな異性のタイプはツンデレです」などと言えるのが許されるのも、ある一定の基準(発言者の年齢や職業、容姿、恐らくその場の雰囲気もそれに含まれる)に達していない人間に限られるのである。


それと同じ様に「風呂場覗きに来いとか言わない森島はるかなら好きです」「Hカップフェリス女学院大学生しかこの人生で抱く気はありません」といった言葉も、それが所謂『受け狙い』である発言であったとしても、そのたった一言で即『人間失格』の烙印を押されてしまう可能性は多いにある。


そういう発言が『許されるか許されないかのギリギリのラインを見極める』というのは非常に難しい行為である事は想像に難く無いが、そういう『思い切った発言』を適材適所、絶妙なタイミングで言える人間が、現実でもテレビの世界でも重宝されチヤホヤされる場面は、いくら私が「女性の肌という物に触れた回数」と「ハローワークに自分から行った回数」が同程度の人間であったとしても目にした事があるのだから、やはり女体というのは素晴らしい。イヤ、そういう話では無かった。


いくら価値観が多様化され、あらゆる思想、あらゆる趣味、あらゆる性癖に寛容になった現代社会とはいえ、「いい年して何やってんの」「いい大人が何言ってんの」という『お母さん目線』の様な物が、個々人にいつまでもいつまでも付きまとうのだろうし、逆にそういう目線があるからこそ、所謂『毒舌』みたいな物がウケやすいのかもしれない。しかし、「いい大人が他人に酷いあだ名を付けて悪びれもせず普通ニヤニヤしたりしない」と「いい大人がアマガミで気に入ったシーンを何度も繰り返し見ながら発泡酒を飲んだ事を普通面白エピソードとして他人に喋ったりしない」との差は、私にはよく分からない所ではある。



『自分の発言が受け入れられやすい場所』というのを1コでも持てる人間は、それだけで日々が生きやすくなる様に感じる。私の場合はどうだろう。コレを読んでいる方々の中に「私はツンデレはあまり好きでは無いから分からない」「私はアマガミもプレイした事は無いから何を言っているのかイマイチピンとこない」「私はハーレム街で親に捨てられ、母の顔も知らぬままに教会に拾われ育った15歳の黒人少年なので、『お母さん目線』と言われても何を言ってるか分からないし、今は拳銃の横流しの手伝いで忙しくてそれどころでは無い」という方がいたら、「色んな人に共感して欲しい」という意思の元にこの文章が書かれていたとしたら、それは申し訳ないと思うが、しかし、その個人にとっての『信じるに値しない場所』に心からの謝罪は不必要だと思う訳で、それにこの文章は「色んな人に共感して欲しい」という意思の元に書かれた文章では無いのでそんな事は知らないし、とにかくまだ未来ある黒人少年には出る所に出て欲しい。


日々に『信頼できる人たち』や『信頼できる場所』を保持できるならそれに越した事は無いのだろうが、やはりなかなか難しい。黒人少年を一人更生できた所で、私が周囲から信頼を集められるかといったら、そうでは無いからだ。長い長い実績と経験を経てからでないと、生活に『信頼』を置く事は許されない。『信じる』を信じる事ができないと、他者から『信じられる』というのは叶わないからだ。


「年相応」が「年相応に、大人なら信頼できる人と場所を作っておかなければならない」にもかかって来るとしたら、こんなに焦る事は無い。「年相応に自分が受け入れられやすい場所を作っておかなくてはならない」、「年相応に女性が感じやすい場所とそうでない場所の1つや2つや3つ知っておかなくてはならない」、「年相応に数万円程度の金ならすぐ貸してくれる人間を友達にしておかなければならない」、「年相応に恋愛シミュレーションゲームからの脱却を目指さなくてはならない」…。


………やはり私は『大人になる為の条件』を1つもクリアできていない様な気がする。一般社会が求める『年相応』が、私にとっては高すぎるハードルとして立ち塞がるのだ。過去の私は一体何をしていたのか。あまりにあんまりである。『これで良かった』と自身の過去を肯定する事でしか前に進む事ができないのなら、こんなに不毛な問いかけは無いのだから、やはりアマガミは面白かった。イヤ、そういう話では無い。