『インターネットにおける私は声をあげて笑ったりしない』

嫌いな物事ばかりをブログで書いている気がするが、勘違いしてもらっては困る。私にも好きな物事は当然あるし「見てよかった、聞けてよかった」と心から思えた体験も勿論ある。


40歳を過ぎても茶髪に髪を染め金メッキのネックレスを着けた父親と、幼少期の私を「アンタが何かしたら怒られるのは私だ!」の言葉で躾け続けた母親という、何の変哲もない人間同士の間に産まれた私なのだから、当然『心』くらいはすでにしっかと芽生えている。


映画を見て感動する事だってある。
映画を見てその構図の美しさに感動した自分を「構図で涙するなんて、自分は玄人だな」と感動する事だってある。
映画を見てその構図の美しさに感動した玄人な自分を見せびらかす為に友達と居酒屋に行っても、いつまで経っても仕事の話と風俗の話しか話題に出ない酒の席に『フリーターである私が悪うござんした』とウドの天ぷらを摘まむ自分自身にも涙する事が出来る。


(最後の一例は一見「また嫌いな物事、嫌な出来事を書いて文字列を埋めようとしているじゃないか」「さっきと言ってる事が違う」「死ね」「頼む 死んでくれ」「2分前に書いた事も守れないのか」「生きる価値なし」と思われがちかもしれないが、ここでは「普通20代の人間が好き好んで食う事はないウドの天ぷらを食える私は凄い」が1つ掛かってくるので、『良い出来事』の方に換算できる。言い掛かりは止して欲しい。)


ただ、その「好きな物事」に触れ合う度に私の脳内に現れるのは「インターネットの私」だ。「もう一人の私」といっても良い。


本を読んだ時、映画を観た時、漫画を読んだ時、人と会った時、労働した時。日常生活におけるあらゆる瞬間に、「インターネットの私」がふと顔を覗かせる。


『インターネットにおける私は声をあげて笑ったりしない』
『インターネットにおける私はバンプオブチキンを久しぶりに聞きたいとは思わない』
『インターネットにおける私はお昼ご飯に1050円の天ぷら蕎麦なんて高級な食べ物を食べるはずが無い』
『インターネットにおける私はフランスのストーリーがあって無い様な恋愛映画なんて観るはずがない』
『インターネットにおける私はライトノベルを読んでニヤニヤなんかしたりしないし風呂に入りながら気に入ったシーンの台詞を繰り返しブツブツ呟いたりしない』


そういう自分自身の声が、俯瞰した立場から聞こえてくる自分自身の声が、いつの間にか心の中で響いているのだ。


発信すべき情報と、発信すべきでは無い情報という物がある。どういう訳か、私はインターネットを利用する時には(本当にどういう訳か)殺伐とした気持ちにいつの間にかなっている時が多い。


森絵都の児童書を読んでとても感動した7秒後にTwitterを起動しては「人は死ぬ」と無表情で投稿したり、近所のスーパーで中学時代の私よりクラス内での立場の弱かった友達と数年ぶりにばったり出会い軽く談笑の5分後、駐車場に停めた車の中でみんくちゃんねるの更新を白目で待つ様な、そんな感情の激しいアップダウンを体験する羽目になっているのは恐らく、インターネットが持つ『毒』のせいではないだろうか。(もしくは「おちんちんを元気にしたい」という性欲)


最早インターネットは私の生活において無くてはならない物になってしまっている。そんなインターネットという名の『毒』に肩まで浸かり、『毒』で炊いた白米を毎食喰らい、『「お父さん、何だか最近おちんちんから変なネバネバした物が出てくるんだ…ぼく、病気なのかな?」「それは毒だよ、まごうことなき毒だよ」』と可愛い可愛い息子にも平気で間違った知識を教えてしまう様な毒漬けの生活が、私の心の内に「インターネットにおいては鬱々とした心境でいる事が正しい様だ」という結論を導き出してしまった。「意味がない事をインターネットに投稿しないと意味がない」と、いつからか考えている私がいるのだ。


では、どうするべきなのか?インターネットにおける使い方をガラリと変えてしまった方が良いのか?時給750円アルバイトの話はインターネットにはもう一切せず、奨学金返済の愚痴も心にそっと秘めておくべきなのか?明日からTwitterにいる声優のpostをRTしたり、無視されると分かっているのに著名人にリプライを飛ばしたり、まとめブログへのリンクを草を生やしつつ投稿すべきなのか?


書いてて「声優のpostを~」の辺りでどちらの私からかは分からないが吐き気を感じたので、コレは精神上よくない去勢方法だという事は分かった。


行くところまで行ってしまえ、と思わなくもない。インターネットの私が現実の私を完全に凌駕し、取り込んでしまうのだ。現実の私が呼ぶ所の「もう一人のボク」となったインターネットの私が不良をカードゲームで懲らしめたり、船上でエグゾディアをバラバラに破かれたり、連載末期はよく分からないインドの話になってグダグダズルズルのまま大円団を迎えたりすれば良い。二重人格の人間は比較的容易に物語を始められる事が出来る。インターネットにおいて無償で毒を発信し続ける皆々様の、より一層の努力を期待して止まない今日この頃。


今思ったのは、もし船上で孔雀舞がダイナソー竜崎に負けてたら、あのままセックスしていたのだろうか?という疑問だ。ウーンなんか汚ったない絵面だな、ソレも。