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処刑のお知らせ 17:00~

ギロチン台に首をかけられ、死ぬ間際の最後の尋問で死刑執行官に「日々に刺激があった方がよいか、全く無い方がよいのか。どちらだ!」と聞かれれば、どうだろう。


恐らく半馬身差で前者を選ぶ。直後に死ぬけど。毎日毎日何も出来事の無い毎日よりは、何かしらのトピックがある毎日の方が何となく「意味のある生活」を送れている様な気はする。首から上はもう無いけど。


しかし、自分で言っておいてなんだが、しかし、どうだろう。
最早我々は日々に刺激を、充実感を注入する事のできる「娯楽」に、すっかり耐性が出来てしまっている。
毎週20本以上放映される深夜アニメには、とっくの昔に食傷気味になっている。
7140円の大金を浪費し購入する新作ゲームは、ほんの数週間で飽きが来てゲオに売り捌く。
友達との会話でも、アニメの話とゲームの話、金が無い話をもう何年も堂々巡りの様に繰り返す。


私も女子中学生になってさえいれば、女子校で友達と娯楽部を結成してラムレーズンを食い漁ったり、親が中卒の目付きが悪い男子高校生になってさえいれば、小柄で頭がどうかしている同級生の女子と恋人の作り合いなど慌ただしい毎日を送る事が出来た。出来たのだが、私は「私は24歳のフリーターである」という事を理解してしまっているので、さあ遂に執行だ!と、ギロチンの鋭利な刃が頚動脈に達する2秒前に「大河!大河ー!!」と叫んだ所で、ボロ頭巾を被り、血で錆び付いた斧を担ぎ、皮の鎧を着込む死刑執行官の大男に無視され鼻で笑われるのは目に見えている。しかも直後に死ぬし。


只々胡座をかいているだけで「楽しい」が空から降ってくる訳では決して無い。
なもり大先生の書く登場人物でなければ、とらがドラするライトノベルの主人公でも無い我々では、お金を媒体として「娯楽」の方に自分から歩み寄らなくては、心に刺激を与える事は出来ない。
金を消費し、娯楽を体内に取り入れ、吐き出す。金を消費し、娯楽を体内に取り入れ、吐き出す。この工程を繰り返す様に生きているのだから「刺激」に耐性が出来てしまうのも当然だ。


では、「娯楽に触れる」という精神的な刺激に耐性が出来ているのなら、肉体的な刺激はどうだろう。

我々現代人は、文明が発達したおかげで「体を動かす」という事を行わなくとも、生活に不便を感じない様になった。ここに、本来人間に備われていたはずの「肉体的刺激による充実感を得る機会」が、失われてしまった要因があるのではないだろうか。





さて自慰である。
もう2013年の日本では、体位一つGoogleで検索すれば、もうそれで事足りる。女性特有の職業で検索してみても良い。お気に入りのセクシー女優がいればネットで借りて自宅に届きポストに返却。


…この様な安楽椅子探偵の出で立ちで自慰画像、自慰動画を収集できる社会に一体誰がしたのか。いや確かに、このエロガラパゴスの恩恵を受ける日は、確かに私にもある。確かに私にもあるが、毎日毎日お婆さん探偵を気取ってベルトを緩める日々では、人間は恐らくダメになる。


たまにはホームズにもなって、足を使ってみる機会を作らなくてはならない。あなたのiPhoneが電話でなく「エロ画像を見る小窓」になっている時点で「エロ本をレジにおばさんが入った瞬間を狙って持っていく」「TSUTAYAのAVコーナーで周りの客に勃起を悟られない様に歩行を続ける」などの「体を動かす事による刺激」から、どんどん遠退く事に気付かなくてはならない。


人間とは案外脆い作りになっていて、自らがアクションを起こし、率先して日々に緩急を付けてあげなくては、すぐに心が枯れてしまう。どうやって自分をごまかすか、どうやって自分を飽きさせないか、といった事すらも自分自身でコントロールする必要がある。



さて自慰である。今日はずっと自慰の話である。
ニトリで買った座椅子に座り、足をピンとさせた状態での自慰の毎日では、日々の充実感なんて物はすぐに失われてしまうだろう。


しかし、我々には2本の立派な足がある。この足さえあれば、どこへだって行けるのだ。人生には沢山の選択肢がある。皮オナ、床オナ、オナホール、起立しての自慰、風呂場での自慰…。


日々に「刺激」という「変化」がある限り、日々に選択肢がある限り、我々は何者にもなる事が出来るのだ。私がギロチンに首をかけられる事態になった際にも「そういえばエロ漫画を通販以外で買ったことが無いぞ?」と、選ぶことの無かった可能性を憂う事になるのだろう。満足な自慰もできず、後悔しながら斬首されるこの結末。思えばロクな人生じゃなかった。