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万感の思い出

「人間は考える葦である」という言葉もある様に、我々人間は「考える」という行為で、自身の価値を表現しなければならない。

日々の日常において、人間は何を見て、何を感じて、何を考えるのか。どんな小さな出来事にも感動を覚えたり、どんな小さな疑問にも好奇心を発揮できれば、いつもと変わらないであろう『日々の生活』にも価値が出てくるのは想像に難くないが、その様なほぼ日刊新聞みたいな日々を送られる人間は、そんなに多くない。

『思考をどの瞬間でも止めない』というのは(このブログを読んでいる皆さんは、『このブログを読める』という事で、恐らく前頭葉が極端に小さい方々だけだと思うので、一応明記しておく)相当難しい事なのである。

「何も感じたくない」「何も考えたくない」という暗黒面に、さながら万有引力に引っ張られていくかの様にして、人々は心の奥底で『空虚』を求めてしまう物であるとは思う。しかし、それに抗う様にして日々を生きる人間も、我々がカウパー腺と戯れているこの瞬間にだって、やはり必ず存在する訳である。

『形ある物を作成する事で、自分と向き合い続ける人々』『形ない物を作成する事で、空虚感を埋め続ける人々』『とにかく仕事する事で、他人と向き合い続ける人々』…社会が「空虚なんて全く知りません」の様な顔をしてくれているおかげで、今日もアニメは放映されるし、コンビニは24時間営業しているし、モスバーガーはいつも75点で美味しい。

常に空虚感から逃げ続ける事は出来なくても、「瞬間的であれば何とかなる」という事を、私の周りに生きる人々が、テレビの向こう側に生きる人々が、インターネット越しに見える人々が、いつでも教えてくれている。

「学校行きたくない」と言ってる人も、翌日朝8時に起きてるし、「死にたい」と言ってる人も、やはりなかなか死なないし、「働きたくない」と言ってる人も、なんだかんだで働く事になっている。空虚と上手く付き合い、やり過ごす事が出来なければ、日々を生き抜くのはやはり難しい。

しかし問題なのは、その「質」である。「瞬間的にだけでも考える続ける」といっても、『自分と向き合う』が『xvideosを開く事で、女体を見る自分と向き合い続ける人々』。『空虚感を埋める』が『ソーシャルゲームに課金する事で、空虚感を埋め続ける人々』。『働く事で他人と向き合う』が『時給750円の仕事で、同僚のパートのおばあさんの発する悪口と向き合い続ける人々』の様な、日々を埋め合わせるだけの空っぽの思考に惑わされてはいけない。いつの間にか「考えた気になった」「自分と向き合った気になった」で満足しない様に、いついつどんな時でも自身の生活を見直す必要がある。コレは一体何なんだ。


xvideosに頼る事なく、パートの悪口おばあさんに付き合う事なく、中身のある日々を積み重ねれば、実りある思考を積み重ねるれば、「良い人間」「賢い人間」「価値ある人間」に、か弱い葦たちは近付いていくのだろうか。

ならば、例え「『マクドナルド→図書館→牛丼屋』の低所得者特有の休日の過ごし方」の日であっても、例え「図書館に向かう途中の道すがら、小さい頃によく連れて行ってもらったレンタルビデオショップが潰れ、宗教法人の事務所に早変わりしている様を見る」の日であっても、「今考えてみれば、父が私をあのビデオショップに連れていったのは自分がAVを借りるついでだったし、カウンターに商品を出す時も、私が借りる『劇場版映画ドラえもん のび太と雲の王国』とかの下にAVを置いてカモフラージュしていたから、多分そういう事だ」の日であっても、価値ある人間に近づく為には、そんなドロヘドロの様な日にも『質』は求められる。それが無理なら『空虚からの切り替え』でも良い。


誰もが空虚感を抱えながら生きている。空虚と思考の使い分け、緩急が重要なのだ。「また思い出深い土地がひとつ減ってしまって、もう何もかもがどうでもいい」の空虚感も、「子どもをデコイにしてまでAVを借りたかった父親の自慰欲」から感じる虚脱感も、いつかちゃんと消化して、次の『質のある思考』に繋げなければならない。

しかし、私は明日も「時給750円で8時間おばあさんの悪口を聞きながら労働」という日なのだ。大きな大きな空虚感がやってくるのは明白なのだから、今日くらいはこのままxvideosを見て、Twitterを覗いて考えた気になって、「空っぽ」に身を任せるのもいいだろう、と思う。こんばんは虚脱感。