千の夜を越えて

幼稚園の七夕で「もっとスマートに生きたい」と短冊に書かなかった結果がコレだ。

話題が豊富で、どんな事もソツなくこなし、好奇心旺盛で、他人の心の揺れ動きに敏感で、さりげなく気を使ってあげる事も出来る。少女漫画に出てくる様な好青年になりたい、とまでは言わないが、「人として、男としてこうありたかった」という『理想的な男性像』は、常に私の中では生き続けている。(因みに「男としてこうありたかった」には「こうありたかった…なのに…なのに…どうして…」と続く)


どこで人生がおかしな方向へ傾き始めたのかは、すでに思い出せなくなった。そんな人生だったから、何をしようにも、「大人としての未熟さ」が露呈する事になってしまう。

「喋ろう」と口を開いた3分後には、いつの間にか「金の無い話」「体のどこどこが痛い話」「人の悪口」のどれかについて話している。「勉強しよう」と資格修得のテキストを開いた30分後には、いつの間にか「何も頑張ってないのに『息抜きにインターネット』」「何も頑張ってないのに『息抜きにPS3』」「何も頑張ってないのに『息抜きにおちんちんを触ろう』」のどれかの行動を取っている。「将来の為に貯金をしよう」と節制を誓った3日後には、いつの間にか「来月に多く貯金するから飯を食いに行こう」「月々の貯金額を減らして遊びに行こう」「大学生だった頃に奨学金で買った漫画を売って巨万の富を得よう」と、だんだんとダメ精神っぽさがステップアップしていく。

日々を生きる度に、一つの夜を越える度に、「オヤオヤ?子供の頃に想像していた『大人』は、こんなんじゃ無かったぞ?」という『アレレ?』と共に、小さい頃に思い浮かべていた『美青年になった理想の私』の惨殺死体を、心の中で見せ付けられる。

「高望みはしないから年収500万貰えればそれでいい」と覚悟していた『私』は、腰から下がミンチの様にグチャグチャになって青白い顔をしている。「25で結婚して、子供はもう少し時間が経ってから欲しい」と妥協していた『私』は、両目が抉り取られた状態で横たわっている。「就職して始めて貰う給料で、家族を温泉旅行に連れて行ってあげたい」と露骨に親の好感度を上げようとしていた『私』は、関節という関節が、全て逆向きに捻じ曲げられた状態で首を吊っている。かろうじて生きていたのは「どこか遠くへ行きたい」と、中3の私が作り出した『私』くらいだったが、それも結構無理な願望だったし、何よりもう手遅れだ。だって今殺したから。バイトもなかなか休めないし。


人間は自分にも他人にも『理想』を押し付ける物ではある。しかし、他人に「おい女、Hカップになれ」「おい家族、500万よこせ」「おい社会、3LDKよこせ」という理想を押し付けても「死ね」という文句は言われるが、自分に理想を押し付けても文句を言うのは私だけなので、どのくらいが『心にも体にも丁度いい理想』なのか、よく加減が分からない。

社会には、無理矢理「いや、今の自分が正しいんだ!受け入れるしか無いんだ!」の自己暗示をかける事で、何とか人間のフリを続けて生きるヒトが沢山いるが、その課程で通ったはずの「こんなはずじゃなかった」を、彼らは一体どうやって乗り越えたのだろう。

それが「もうどうでもいいよ…疲れちゃったよ」「もう考えすぎて飽きちゃったよ…」という持久戦の末の「受け入れるしか無いよ…」だとしたら、「理想の自分が死んでいく」という行為その物が、社会の歯車として生きていく為の第一歩になってしまっているのかもしれない。理想の自分を殺す事にも、きっといつか飽きが来るのだ。

千の夜を超えて、今日もまた一人、人々の心の中で美青年、美少女の無残な死体が増えていく。保育園で「もっと上手に自分を殺したい」とも書かなかった結果がコレだ。書いたとしても、色んな人の心にいる『理想の我が子』『理想の園児』が傷付き、死んだのかもしれないが、私は保育園の頃から一人でドミノ倒しを作る気持ち悪い子供だったので、一回くらい殺してもまあ、誰も文句言わないかもな、とは思う。