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ざっと見て十通りの自由

「何でもいいよ」と言われると非常に困るのは、何も「今日何が食べたい?」と家族に聞いた時に気の無い返事で「何でもいいけど美味しいもの」と答えられたお母さん方だけでは無い。

「どんな風に生きるのもキミの自由だ」「キミだけの夢を持て キミだけの目標を持て」「キミの個性をこの社会の中でもドンドン発揮していけ」「好きなコンプレックスを組み合わせて、キミだけの精神を分裂させよう」「プロデューサーとなって、キミだけのアイドルグループをトップアイドルに育ていこう」などと、まるで『自由に』『勝手に』『好きな様に』が「良い事」の様に、決まり文句の様にして、社会は「好きな様に生きようCM」を我々にバンバン打ってくる。


『自由に生きる』ほど、難しい生き方は無いという事を何と無く分かってるくせに、それでも社会はそういう姿勢をいつだって崩さない。

『自由』に、一体どれだけの人々が人生を狂わされたのか、想像するだけで恐ろしい。どんな風に生きればいいか分からないから、『とりあえずフリーター』という暇の埋め合わせでしか無い選択肢が浮かび上がってくる訳である。自分だけの目標を抱く事ができないから、『そうだ、ライトノベル作家になろう』と大学4年生の冬に決意し、色々な事を後回しにしてしまう訳である。自由恋愛という名の下に、プロデューサーという立場でありながらアイドルに恋してしまったから、『課金しよう』という「終わりの始まり」の入口に立つ事になってしまう訳である。

一体何人のフリーターが、一体何人のラノベ作家志望者が、一体何人のプロデューサーが、『自由』に屈する事になってしまったのだろうか。

一生自由なフリーターでいたくない、一生解決しなくてはならない問題を後回しにするだけの人間でいたくない、一生課金ユーザーとして電子の海でありもしないカタルシスに身を委ねていたくない。誰もが『自由な人』でいたくないと願うのなら、抗う必要が出てくる。自由にどう抗うのか。


ここで重要なのは「自制心」だろう。自分を抑える、縛る、我慢する。犬がご主人のOKが出されるまで目の前に出された餌を我慢する様に、母親の財布が無人のリビングの机の上にあるのを見て「オヤ…」とは思わない様に、街中で猫を見かけると「ぬこー」と言って追いかけ出すブスを殴りたくなるのを耐える様に、「自制心」はいつだって我々を少しだけ助けてくれる。

その自制心を上手く使う事が出来れば、「社会の言う通り、私は自由にアホみたいに楽しく何も考えずに生きてますよ」という顔をしながら、誰も見ていない所で努力し、勉強し、向上心を持ち続ける、という事だって可能だ。

孤独に耐える、自己顕示欲に耐える、SNSで何も考えない時間を作る事に耐える。「自由」とは真逆の方向に突き進む様な生活を送る事が出来れば、きっとその日々の辛さが血となり、肉となる。耐えれば耐える程、未来の自分に貯金を与える事が出来る。

もう一つ言えば、もし、それが女にバレた時に「あの人もボーッとしてる様でやる事はやってるのね」とギャップでキュンとさせる事も出来る。コレはモテる、コレはモテる、コレは確実にモテる。自制心を身に付け、『自由』とどこかで折り合いを付ける事で、女にモテる可能性も捻出する事が出来るのだ。

考えようによっては、『自制するべき自由』を、社会が必要悪として、わざわざ提供してくれているのかもしれない。少年漫画ではおなじみの「乗り越えるべき試練」というヤツだ。



…だがちょっと待って欲しい。『自由』に抗う為には、そしてモテる為には「自由を装いながら禁欲的な生活を送る」というのが有効打になるのは理解できた。では、「自分を縛る為の何か」は、どうやって選べば良いのだろうか?禁欲的な生活を送るのにも「目標」が必要だ。自分を縛り、好きな事を控えてまで行動を起こすのにも「夢」が必要だ。

…酷い事になってしまった。なんて仕打ちだ。自由に生きない為の方法も、また私が選ばなくてはならない。ずっとずっとずっと、「自由」の繰り返し。自由の次には自由、自由をひっくり返しても自由、自由をひっくり返して底をトントンしてみても、カンカンコロと落ちてくるのはまた自由。それが「不自由」と感じるのもまた「自由」。生涯が自由との追いかけっこ。やってられるか。


もうこんな生活、真っ平御免だ。ブスが「ぬこ」と言い出し、しかも懐からカメラでも取り出す様なら、「ぬ」で殴った方がいいのかもしれない。思うがままに生きるかそうでないかも自由なら、殴るも殴らないも、また自由。傷害罪で法廷に立たされる事を不自由と感じるか感じないかも、また自由。