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9千円でも大丈夫だと思う

小さい頃から、私の自室にはゲーム機があった。

親が「買ったけどもう飽きたから」という理由で、お下がりになったスーパーファミコンが始めて持たせてもらったゲーム機だった。

そのスーファミから始まったあとは、ゲームボーイカラーニンテンドー64と続き、中学生になったばかりの頃にプレイステーション2をお年玉で買い、大学に入学してバイト代で購入したのがニンテンドーDS、実家に戻ってきてから、最近になって購入したのがプレイステーション3になる。(ドリームキャストとかXBOXとかは、なんか『亜流』みたいな感じがして買わなかった)



ソフトも軽く見積もっても100本は確実にプレイしてるはずだし、その中にも面白かったゲームは勿論沢山あった。

桃太郎電鉄』、『マリオRPG』、『スーパードンキーコング1、2、3』、『星のカービィ スーパーDX』、『カードヒーロー』、『もんすたあ★レース』、『実況パワフルプロ野球』、『マリオカート64』、『マリオパーティー』、『バンジョーとカズーイの大冒険』、『大乱闘スマッシュブラザーズ』、『スターフォックス64』、『爆ボンバーマン』、『カスタムロボ』…小さい頃にプレイした物だけでも、挙げ出すと本当にキリが無い。


ゲームのやり過ぎで、視力もメガネが必要になる程ガクッと下がり、外に出て遊ぶ事も殆どないから、身体はドンドン痩せていったし、学校でクラスメイトと喧嘩になった時も「ゲームなんて石油の固まりのくせに!」と、今でもよく意味が分からない悪口を言われたりしたが、そんなのは全く大した事では無い。当時の私にとって「生活」と「ゲーム」は切っても切れない関係であった。


「全部クリアしてはデータを消して最初からやり直し」を何度も何度も繰り返して遊んだゲームもあった。少しずつ少しずつ自分の腕が上がっていく事に何物にも変え難い快感を覚えたゲームもあった。友達を家に呼ぶ口実に出来たゲームもあった。ゲームばっかりやっていたので、学校に行っても話題が「ゲームの事」しか無く、あまり会話した事のないクラスメイトからも『ゲームが好き』とだけは覚えられていた事もあった。

大人になった今でも、勿論ゲームをするが、あの時と決定的に違うのは「ちゃんと考えながらゲームができる」という所(文字にすると物凄いバカっぽい『気付き』だけど)だ。

「ああ、主人公はこういう理由で敵に立ち向かっていくのか」とか「なるほど、こういう仕組みだから『楽しい』と感じるのか」とか「ああ、これなら長時間続けてプレイしてもマンネリ感をあまり感じなさそうだ」とか。

ある程度『このゲームを作った人はどういう所で楽しんで欲しいのか』みたいな所を、ちゃんと感じ取ってゲーム出来る様になった気がする。

小さい頃は何も考えなくても、何も感じようとしなくても、只々指を動かしているだけで楽しかった。画面の中にいる自分が、私の操作通りに動いてくれるだけで楽しかった。

子どもの頃に死ぬほどゲームに熱中できたのは、「考える」という機能がその頃の私には備わっていなかったからなのだろう。ただ画面を網膜に映すだけで、本能的な快感を得る事が出来ていた。外で遊んだり人と会ったりするより、家でゲームをしているだけの方が、ずっと野生的な生活を送っていたのかもしれない。

「時間は無限では無い」「お金は無限では無い」という事が何となく分かってしまった途端、その「小さかった頃限定の楽しみ方」を失ってしまった様な気もする。

「限られた時間内で何とか楽しく過ごそう」「自分の時間の使い方が間違っていなかった様に振舞おう」「安くないお金を使ってるんだから損したとは思いなくない」…「楽しさ」でさえも、自分への言い訳や理由付けが必要になってしまったのは、損なのか、得なのか。

「損した!と思いたくない」という、只それだけの理由で、その作品を自分の中で無理やり正当化してしまっている様な、『考えよう』と思って考えているだけの様な、そんな気がしてならない。



「思考」を経由した途端、それが「偽物」になった様に感じてしまう。…解決策としては「巨万の富を得て娯楽を死ぬ程消費し、物への執着心を極限まで0にする」という事くらいしか、今は思い付かない。

「貧しいから」という理由で沢山の物が否定されるのが社会の常識であるのなら、きっとコレもそれに該当するのだろう。グダグダ書いたが、今日私が言いたい事は、結局「金が欲しい」という事なのだ。金があれば物への見方が変わる、価値観が変わる、環境が変わる、人生が変わる。1万円あれば何かしらに対しての正当な評価が、私にもきっと出来るはずなのだ。

ああ、時給上がらねえかな。