老衰5秒前通知

絶えず問われるのが「何を選び、何を捨てるか。」という事だ。

例えば「次の昼飯は何を食べるのか?」といった今日のほんの小さな選択から「この先の進路は就職か、進学か?」といった人生に関わる大きな選択まで。

昔を思い出しながら「あの時に別の選択をしていれば何か変わったのだろうか」と考える事は私もよくある事だが、『どの生き方を選んでいれば正解だったのか』などという事は、これまでの選んできた道しか知らない私達には当然分からない物であるし、これからの科学技術の発展によって『人生の答え合わせ』的な物が実施される可能性も0では無いが、恐らくそんな物を見たいと思う人は誰もいない気がする。老衰で死ぬ5秒前、心電図の横に映し出されるモニターに「アナタノジンセイハ27テンデス」の表示。可能なら死んだ5秒後に表示させてほしい。



人生は選択の連続である事は間違いないのだが、その「選択」も必ずしも「時間をかければかける程、考えれば考える程、成功率が上がる」という物では無い訳で、では「どちらの道を選ぶか?」という場面においての思考というのは、結局「その選択が失敗した時の為の理論武装の時間」というか「最初の一歩を踏み出すまでの時間稼ぎ」というか、所詮『後回し』でしか無いのかもしれない。


「大事な事だからよく考えて決めろ」とは小さな頃から学校やら家庭やらで言われていた気もするが、アレはつまり「後悔した時の為の心の準備を今の内にしておけ」という事であったのかもしれない。

「選ぶ」という事は「捨てる」という事でもある。この場合「選ぶ」というより「捨てる」という行為の方がより怖さを感じる気がするし、その「選択肢を捨てる」という行為の恐ろしさが、『選択』における躊躇を作り出しているのだろう。

その「捨てられた選択肢」も、たまに心の中で実体化してしまうというのがまた恐ろしい。昼飯に『選ばなかった』とんこつラーメンが、進路の際に『捨てた』就職が、ずっとずっと心に残る燃えないゴミとなって『後悔』という名の異臭を放ち続ける。



『選択』を間違えた気になっていたのはいつからだったろうか。

心のゴミこと後悔が山の様に積み重なっている現状で、老衰5秒前の「27テンデス」の表示が視界の隅に映りながら「いい人生だった」とは口が裂けても言える訳がないし、まずこんなゴミ屋敷の住人が「イヤ、生きてて幸せだよ!」などと『ゴミ屋敷の住人に突撃取材!』でやって来た夕方ニュース番組のテレビクルーの前で言い放った日には、近隣住人の「殺すぞ」の声は必ず聞こえてくる事だろう。

思考もクソの役にも立たないのであれば、「直感」が頼りになってくるのだろうが、これまでの失敗続きでゴミを抱えながら生きる人間の「直感」とは、果たして意味がある物なのだろうか?私も「直感」という物を発揮したり信じたり出来れば良い物だとは思うが、同時に、ゴミ屋敷の住人はテレビカメラの前で必ずこうも言う。「このゴミも何かの役に立つかもしれないし…」