404号室のお母さん

まあ持ちませんね、記憶が。

昨日の夕飯を忘れる、さっき聞いた業務内容を忘れる、シャワー浴びてて「アレ?自分はここに突っ立ってるけど、コレは頭をもう洗ったから突っ立ってるんだっけ?それともこれからシャンプーを出して洗おうという事で突っ立ってるんだっけ?」と15秒前の体験を忘れる。15秒前の出来事を忘れられるならこんないい人生は無いですよ。

辛い事も悲しい事もすぐ忘れちゃう。後悔も反省もしなくて良い。しなくて良い、っていうか出来ない。なんとなく選んで、なんとなく決めて、なんとなく生きる。「忘れる」というのは、その出来事によっては効いてくるのが遅い時もありますし、そのまた逆も然り。

「忘れる」に時間指定があれば、もっと真っさらな心で物事を見る事ができたのかもしれませんが、そんな便利な機能が人間に完備される事は多分無いのですから、バカの烙印が社会からポンっと押されるのも、これは仕方ない事ですね。

『記憶』が液状の物だとしたら、それを受け止めているはずの私の脳髄はスッカスカの手抜き工事物件ですね、確実に。震度2で崩れさるんじゃないですか、脳髄。


電車内とかもう乗れないですよ、簡単な揺れで床に脳味噌ブチ撒けてしまうんですから。

あなた方は人の頭部が床にボトリと落ちる瞬間を見たいですか?入院している母親をお見舞いに行く為におばあちゃんと2人で隣町の病院へ向かう途中の小学生にそんな情景を見せられますか?隣町までわざわざ行かなければならないという事は、そこそこ大きい病院で診てもらわないとならない様な深刻な病にお母さんは苦しんでいるという事ですよ。

子供もきっと運動会やら授業参観やらで「お母さんに自分の頑張る姿を見てもらいたい」と思う時だってきっとあるでしょう。「他のクラスメイトはお母さんに来てもらえてるのに、何で私だけ一人ぼっちなんだろう・・・」と机に座って必死に今の時間をやり過ごした時もあったでしょう。「病気になったお母さんなんていらない!」と病室で叫んだ後、父親にビンタされ、泣きながら病室を走り出た日もあったでしょう。


その小さな体と未熟な心では、『母親の愛情を常に受ける事が出来ない』というのは、私たちが考えている以上に、彼女にとって辛い日常であったのかもしれません。しかし、子供にとって母親が一人しかいない様に、母親にとっても自分の子供に代わりなんていないのです。

「自分が辛い様に、お母さんだってきっと辛いんだ・・・」という事に気付く事ができた瞬間、彼女の心は少し「大人」に近づく事が出来たのかもしれません。「お母さん・・・私、お母さんに伝えなきゃいけない事があるの。」そう言って数年振りに母の元に向かう事を決めた彼女。会ったら最初に何を言おう、「ごめんなさい」かな「今までありがとう」かな「これからも一緒にいてね」なのかな、お母さん・・・


・・・の子供に、私のグチャグチャな脳髄を見せる事ができると思いますか?もう新たなトラウマを私のせいで植え付ける事になりますよ。辛い人生でしたよ、彼女も。でもそれでも何とか健気に生きてきたんです。

もう一度自分の人生の中の暗い部分を見つめようと、ちゃんと決着を着けようと覚悟を決めたその日にですよ?私の脳髄グッチャーを見せられますか?私が電車に乗ってしまったばかりに、「少しでも早く移動したい」と思ったばかりに、彼女の人生がまた大きく変わってしまう可能性だってある訳ですよ?

私が馬鹿であったばかりに、移動時間の節約を試みたばかりに、人ひとりの人生が狂ってしまった。どうやって償えば良いのでしょうか。どうすれば償う事が出来るのでしょうか。いや、そうだ。私にはアレがあるじゃないか。「償い」でも「反省」でも「後悔」でも無い、唯一無二のナイスアイディア。その実態とは・・・!!




まあ持ちませんね、記憶が。