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3度の飯より何が好き

「好きだから」という理由で我々人間はその「人」であったり「物事」であったりを『もっと深く知ろう』『自分も真似してみよう』などと試みる訳であるが、この世に存在する大抵の物が「知れば知るほど見たくなかった部分も見えてくる」という性質を持つのであれば、「好意」で始まったはずの感情は、いつの間にか「妥協」にすり替わっていくのだろうし、いつか『好きでやっているんだからしょうがない』『自分がやり始めた事なんだからしょうがない』という「しようがない」を使った言い訳が自分の心の中に登場してくる場面もやって来る事を考えると、では「興味」は「辛み」の入口なのではないか?と思わざるを得ない。


「知りたい」「もっと好きでありたい」を問い詰めれば問い詰める程、よく分からないドロヘドロの様な液体が「知りたい」から溢れ出してくる。

深くを知る前に「知りたい」の入口だけ「ハーイオッケー分かりましたー」とサササーッと触れてすぐ帰る事が出来れば良いのだが、好きになれそうな物が殆ど無い様な人間にとっては、それさえもなかなか難しい。

知識欲みたいな物が唯一の「社会との取っ掛かり」に感じられる人間にとって、数世紀ぶりにようやくようやく芽生えた知識欲みたいな物を辿ることでしか、自らの『人間らしさ』を実感する事ができないのである。


「嫌いな物」であれば掃いて捨てるほど挙げられる事は出来るし、そこから「人間らしさ」「自分らしさ」を作り上げられる事が出来れば良いのだが、嫌いな物を挙げ続けるというのは、何だか自分の心を詰将棋の様に「少しずつ逃げ場を崩して行く」感がして、私にはもうあまり出来ない。

恐らく中学生だった頃に文字を黒板に書けば女子にキモイと言われ、体操服に着替えればジャージの感じがキモイと言われ、前から配られてきたプリントを後ろの女子に回す時ですら「ヒッ」と言われ続ける3年間を暮らしていた時に詰めて詰めて詰めまくった反動が今来ているのだろう。

「あそこに飛車を置けば私の社会復帰はもう未来永劫無い」というレベルまで来ていると思う。もう1手詰将棋だと言っても良い。沢山の人に見逃してもらって、私の心は生きている。


「好きな物で自分を語れよ」という言葉はあるが、それは違う。好きな物で語られる言葉しか、社会は一切聞いてくれないのだ。

その好きであった物ですら、最初に覚えた好意は、日々を経る事に少しずつ少しずつ薄まって行く。最初に感じた「好き」は、一体いくつの「辛さ」や「妥協」を孕んでいるのだろうか。それを知ってしまうと、何かにのめり込む様に熱中したり、毎日毎日その事で頭が埋め尽くされる、なんて事はあり得ない事であるし、『新しい事を始める』という事に臆病になってしまうのも、至極当然の成り行きである様に感じる。


「諦め」を覚える事こそが成熟した精神になるための第一歩であるとしたら、「何かを好きで居続けること」というのは、「大人が丸坊主で緑の半ズボンを着て学校のグラウンドでカラーボール野球をする」的な、「成人男性がオムツを履いておしゃぶりを咥えて、完全に育った女性に『赤ん坊と接する様な振る舞い』をお願いし、そしてあやしてもらう」的な、『成長』とは完全に逆のベクトルの考えであるのかもしれない。


…例えが自分でもよく分からない例えだし、「それって赤ちゃんプレイの事だよね?金銭が発生すれば再現可能な行動をそういう例えに持ってくると余計分かり辛くなるよね?」とはもう今まさに思っているが、私は大人なのだ。『諦め』が大人のする行動なのだ。幼児性の欠片も無し。明日から「幼児性の欠片も無しブログ」に名前を変えたって良い。コレでまた一歩成長だ。