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10時間睡眠の日常

常識という「ルール」は破られる物であるのなら、生活という「リズム」もまた狂う物である。

生涯を通して同じような日々を生きるのは元々人間にとって辛い事であるはずであるし、そう考えると「家族」という責任を背負いながら日々を生きてきたサラリーマンも、ある日突然「父さんな、ヒップホップで食っていこうと思うんだ」という嘘の様な冗談の様な台詞を発する可能性も全くの0では無い。

まあ、ヒップホップは言い過ぎだとしても、それに似た会話内容の家族会議は確実にこの日本のどこかでは行われているはずだし、「家族」という枠組みに拘らなくても「誰かの人生の転換期」に巻き込まれた覚えの無い人間は、もしかしたら殆ど存在しないのかもしれない。


「日常」もまた失われる物である。

只々ダラっと流れる毎日に価値を見出すのは難しい事であるし「失ってからその価値が理解できる」では『日常を継続させる』という事には本当に価値はあるのだろうか。

例えばミュージシャンであれば「死んでからその楽曲が再評価される」という事はあるだろうが、私が演奏できる楽器といえば小学4年生だった時に入部し吹奏楽部で吹いていたトロンボーンだけであるし、そのトロンボーンも何故か私の物だけツバが良く溜まってしまい、私は只々マウスピースに二酸化炭素を送っているだけなのに女子からは「汚らしい」と言われるだけであったので、これから猛練習を重ねても、全人類の半分にも及ぶ女性という人種から「汚い」と言われる様なトロンボーン演奏者は恐らく大成する事は無いと予想できる。私の『ミュージシャンとして紡いできた日常』が再評価されるという事もこれから先、恐らく無いだろう。「掃けば捨てられる様などこにでもいる人間」の失われた日常、予定、未来など、誰も興味が無い。


「失われるのが日常」「狂わされるのが予定」「いつでも分からないのが未来」であるのなら、日常の中に『予備』として「失っても構わない時間帯」を作っておく必要がある。「社会の偉い人」が「さあお前の日常をグチャグチャにしてやるぞ」と登場して来た時に「ではこの時間帯の日常を献上致しますのでご勘弁下さい」と差し出す為の「どうでもいい日常」を作っておくのだ。

私の子どもの頃には2学期も終わる時期に差し掛かると「冬休みのしおり」が毎年配布されていたのだが、そこには円グラフの形状をしたタイムスケジュール欄に「一日の予定」を記入する箇所があった。あれも考えれば「タイムスケジュール通りに上手く行かないのは分かっているけど、社会が壊したいのだから仕方が無い」と作成した部分であったのかもしれない。


では私の考えつく限りの「どうでもいい日常」を羅列していけば、社会はそれで満足す訳だ。例えば「インターネットでSNSを凝視し続ける時間帯」は社会に蹂躙されるには打って付けだろう。「自慰の為の画像と動画を漁る時間帯」も全くもって不要だ。「朝5時に寝て夕方前に起きる事で生まれる10時間睡眠」も人生においては価値が無い。「時給750円で満足しなければならない田舎での労働」も、もうどうなっても良いと言える日常だ。さあ狂わせて欲しい!社会に日常を壊される準備は万端だ!いつでもどこからでもかかって来い!!


しかしこの「いつでも壊されて良い日常」を過ごし始めてから、もう1年半は経過しているはずだが、未だに社会の陰も形も見えない。このままでは「わざと駄目っぽくしてある日常」がホンモノに成り代わってしまう。私は只々準備が良いだけなのだ。決して怠け者などではない事を、社会の偉い人には分かっていて欲しい。