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「0」を理想とするのなら

思考を重ねれば重ねる程「理想」という言葉からは遠ざかる、言葉を発すれば発する程「純粋」という言葉からは遠ざかる。

大きな夢を持つこと、純粋な心である事を世間は思春期の人間に求めがちではあるが「純粋であろう」と考えた瞬間にその人間は純粋などという枠組みからは大きく外れる事になってしまうのは「思考」という行為が、如何に人間にとって泥沼に自分から突っ込んでいくだけの自殺行為であるかを証明してくれる。


「夢」を一つハードルを下げて「目標」に言い換えたりするのも、やはりそれは思考がリスク管理を行った結果であるし、自分のできる範囲からコツコツやるというのは一見賢い選択の様に思えるが「身の程を知る」という事は、一気に自分を夢から覚めさせてしまう。

心地よく、自分に都合の良いだけの空間に浸っていたい。もしそれが只の「自惚れ」であっても「思い過ごし」であっても、私がそれに気付かないであるのなら、関係無い。できる事ならばいつだって「理想」の中だけでフワフワと揺れる様に生きていきたい。


大人になるに連れてそれが許されなくなると言うのであれば、子どもを名乗る事の出来るギリギリの期間までそれを知らずに生きていたかったと思うが、コレも恐らく運みたいな物で、この時この場所で産まれ育った私の場合には、それが上手くいかなかった。

なんせ私の学級は小1からずっとクラス内カースト制度導入校であったし、「アッ、ここ、カースト制度導入校だぞ!」と気付けてしまった事も、また運が悪かった。ここでもう一歩早熟な人間であれば「理想と現実の折り合いを付ける」という『コレぞ大人』的な選択肢も選べたのだろうが、これだけは今も昔も苦手なままだ。

「純粋」というのは「社会のエライ人」の傀儡の様に思考停止で生きていかなければ到底叶わない生き方なのかもしれない。何も考えずにお給金が頂けるのなら、喜んで純粋な人間に生まれ変わりたい。思考停止、最高。前頭葉の壊死、最高。


『ココカラ』と書かれたミシン目を「理想」という物が可視化してくれればもう少し何とかなったのかもしれないが、「何かコレ、千切るのすら怖い!」とたかがミシン目相手にも腰が引けてしまうかもと、書いてて今思った。

「どうしよう、どう自分は生きよう」とウンウン悩んでいる時に、そのミシン目を千切った瞬間に「まあもう遅いけどね」「まあ自分には無理だけどね」「まあ理想論だけどね」と人間の体温を感じられない台詞を平気で言える様になる、なんてのはエコで良いのかもしれないが、それにしたって恐ろしすぎる。理想を得るのが恐ろしいのなら、理想を失う事だって恐ろしい。つくづく人間の「意識」という物は融通性が皆無だなと改めて感じる。


「こういう事を考えたけど出来なかった」「こういう事を言いたかったけど力量不足だった」の積み重ねでこのブログも出来ている。アルファベット順にタイトルを作っていくのも前回で終わってしまったので、また振り返り、反省会でもやろうと思ったが、私は『純粋でありたい』とは思うので「何だかそんな感じでも無い気がする」という正直な気持ちも、自分の中で大事にしたいとは思っている。「『理想』になれなかった何か」に対して本当に思うところがあるのかと聞かれれば、そんな事は全く無いけれど。