XX染色体であったばかりに

「楽に生きたい」「努力せずに生きたい」と思うのが元々の人間の本質であるのを忘れてしまったかの様に生きる人々が多すぎる、という事がこの社会を人が生き辛い物に変えてしまった一因である事は間違い無く『努力は報われる』『その苦労はいつかきっと実を結ぶ』『やらずに後悔するよりやって後悔しよう』という様なもう何度も何度も使い回されてフニャフニャになってしまっているはずの「誰かを奮い立たさせるはずの言葉」を間に受けて「頑張るぞ!」と簡単に変幻してしまっている人間の多さに「なんなんだお前らは!」と叫びたい人間は何万人といるはずなのに、「苦労万歳、疲弊万歳」という風潮が日本国建国以降、未だに続いているのは「大人になっても楽がしたいなんて・・・」という様な「大人として」が、責任感であったり、世間体であったりを気にさせるからなのだろう。


何に幸せを感じるか、というのは「楽しみ」を見出せる対象が無限大にも存在するこの現代においては多様化されて当然であるはずなのに、それが「趣味」や「時間つぶし」の枠から一歩踏み込んだ「生き方」という枠になると、それは急激に絞り込まれてしまう。「就職して一生懸命働いて20代後半から30代中盤に結婚して子ども2人作って定年まで働いて辛かった日もあったけど、自分は幸せな一生を送ったよね・・・と思いながら死ぬ」という事こそが『幸せ』としていつの間にかほぼ全ての人間の価値観に刷り込まれているのだ。このダイジェスト数行公務員人生のどこに「楽できた」「疲れなかった」と思わせる単語があるだろう。無い。全く無い。


強いて言えば「思いながら死ぬ」の部分がすごく楽そうだが、就職して最初に楽になれたのが「死の瞬間」では、誰か私と一緒に神殺しの冒険の為のパーティーを組んで欲しい。こんな人生、常に疲れている。常に精神が摩耗している。常に「楽になりたいけど我慢我慢」と絶対心の底で感じている。「それが人生、それが大人なのよ」という様な知った口は効かないで欲しい。『出口は一体どこであるのか?』そういう事を私は問いたいのだ。


いつの間にか他人の優しさを当てにしたいたり、打算的に行動してしまっている自分に気付いた時に、私は強く「もう何も望みたくない 何も欲しがりたくない」と感じる。全てを有りのままに受け入れたい、何かに対して不満や苛立ちなど覚えたくない、ガソリンが高くても気にしない、時給が750円でも気にしない、毎日お肉を食べなくてもいい、自慰もオナホールは使わなくてもいい。


良く言えば自然体に、悪く言えば人間らしさを捨てて生きていられればどんなに楽かと思えるが、「もっと欲しがれ!」「もっと生きたがれ!」と『欲求』を要求してくるのも、また社会である。しかもこの社会の最悪な所は「この要求に答えないとこの先、生活させてあ~げない!」という脅迫までナチュラルにぶっこんでくる、という点だ。


生き方の脅迫をも受け、更にそれに答えなければ飢えて死ぬだけの未来が待っている。只々私は産まれて生きているだけなのに、いつの間にか社会に銃口を向けられながら日々を生きる羽目になってしまっていた。こんな凶悪犯は一刻も早く捕まって欲しい所であるし日本の警察は優秀だから期待したい所ではある。しかし、銀行強盗や誘拐犯といった金目当てで行われた犯罪の殆どはこれまで検挙されているはずだが、この場合は勝手がかなり違う。


「社会に脅迫されているんです!助けて下さい!」と110番に連絡しても、この言い方では「ややや、これは本官、精神異常者に遭遇」と救急車だけが我が家に到着する事になるかもしれないが、病院のベッドにいればご飯も運ばれてくるし、比較的楽に生活できるかもしれない。近所の方々も「あの家の長男はどうかしてる」と避けてくれる様になってストレスもかからなくなる可能性も多いにある。よし、時代は救急車だ!…っていうか今時一人称が「本官」の警察官は存在するのか?「この悪ガキ!いっつも悪さばかりしおって!」と子どもを追いかけながら拳銃を振り回す様な古き良き警察官みたいな。警察官に古き良きもクソもないけど。